子供の頃、蝶を捕まえた。キラキラしてとても綺麗だった。 でも、指についた粉を汚く感じた。 だから、羽の粉をできるだけ払って水で流して、それから籠の中に入れた。 すると、数日もしないうちに蝶は動かなくなった。 何が間違っていたのかわからず涙が溢れる。 だけど、蝶は綺麗なままだった。 美しい形を残してぴくりとも動かない蝶は、泣いている僕を惹きつけて離さない。 しばらくはそれが僕の宝物だった。 物心ついたときからなんとなくおかしいと思っていた。 そして、小学校に入った頃に気づいた。僕の家族が普通ではないということを。 両親は自分たちが優秀であることを世間に認知させ、それを確固たるものとするために生きている人たちだった。 優秀な自分たちは優秀な人物を産んで育てなければいけない。 そんなよくわからない理由で両親は子供を三人もうけた。 僕はその三人目、男兄弟の末っ子として産まれて来てしまった。 兄たちはとても優秀だった。 何をしてもさせても軽々一番を取る兄たちを両親は褒め称える。 さすが自分たちの子供だ、それが当たり前なんだ、と。 でも、僕はとても劣等だった。 どれだけ頑張っても一番にはなれない僕を両親は叱責して蔑む。 自分たちの子供と思えない、期待外れの出来損ないだ、と。 両親の僕への諦めが徐々に嫌悪に変わっていくのがわかった。 手を挙げられることはなかったけれど、罵詈雑言は容赦なく浴びせられる。 兄たちの僕への興味は皆無でそれが変わることはなかった。 助けてくれることもなければ、話しかけられることもなく無視される。 家族は僕をそういう存在として扱う。まるで虫けらのように。 それは僕が大学に入って家を出るまで続いた。 でも、小学生の僕にはわからなかった。答えなんて見つからなかった。 必要じゃないなら、価値がないのなら、なんで僕はここにいる? なんで生まれてきた? なんで生きている? なんで、誰も、僕を捕まえてくれないの? だから、子供の僕は両親に見つかって怒られないように一人声を押し殺して泣くしかなかった。 そんな折、隣の家に君が家族と引っ越してきた。 偶然にも君の父親と僕の父親が知り合いだったこともあって、体裁を気にする両親は君の両親と程々に交流を始めた。 近所に友達がいなく当時一人っ子だった君は、なぜか僕にすぐに懐いた。 歳が一番近かったせいかもしれないけれど、それでも、兄たちではなく僕に、だ。 僕と仲良くしても何の得もないのに、君は僕の名前を何度も呼んで、僕が反応すると表情をころころ変えて、僕と一緒にいたいとついてくる。 胸の奥が温かくなって苦しくなって、でも、何かが満たされていく。 初めての感覚に戸惑いながら、君から無邪気な笑顔を向けられるたびに、自分はここにいていいんだと、生きていて大丈夫なんだと、ただただ嬉しかった。 たかが子供されど子供だけれど、純粋に僕を慕ってくれる君を大切にしなきゃと思った。 それから、君と過ごす時間が増えて、僕の世界は少しずつ変わっていった。 たとえば、子供の君が初めて料理をしたときのこと。 君は僕の好きな物を作ると張り切って、何がいいか聞いてきた。 だけど、僕には答えられなかった。 今まで両親にもそんな風に聞かれたこともなければ、そうやって作ってもらったこともない。 出された物をただ食べるだけ。美味しいかもよくわからない。 だから、彼女が作りたいと思っている物を聞き出して、それを作ってもらうことにした。 そして、できたのが砂糖の量を間違えた卵焼き。 一口食べただけで舌も歯もじーんとなって、鼻の奥がきーんとなって、喉も胃もかーっとなって、咽せてしまうくらいの甘さ。 僕だけ食べるなんてずるいと言って、一緒に食べた君の父親は吹き出して涙目になっていた。 でも、僕はその卵焼きを食べ切った。 誰かが僕のために作ってくれたことが、その誰かが君だったことが何よりも嬉しかった。 そこから、僕の好きな物は甘い卵焼きになった。 あれ以来、君が料理することはほとんどなかった。 他に夢中になれるものを見つけて、それに一生懸命だったからだ。 だから、君の苦手なことは僕が代わりにすればいいと思ったのも、これがきっかけかもしれない。 君が困っているときに助けられるように。君が僕を必要だと思ってくれるように。 そう思えば勉強でも料理でも何でも頑張れた。 両親は君と仲良くすることにいい顔はしなかったが、僕のやる気を削ぐことはしなかった。 どうでもよかっただけかもしれないけれど。 中学は私立を受験することになっていた。 でも、受験組ではない君は公立に行く。 学年が被らないから一年しか君とは同じ学校で過ごせないけど、君が寂しいと言ったから、僕はわざと受験に失敗して公立に入った。 両親がとても怒っていたのは覚えている。三年間当たりがかなり強かった。 高校も同じように受験にわざと失敗した。 そして、君が入りそうな公立に行った。 とはいえ、中学のときとは事が違うので、君が同じ学校を選んでくれるように働きかけなきゃと漠然と思っていた。 両親の怒った声がやたらとうるさかった。三年間ずっと当たり散らかされた。 高校に入ってしばらくしてからだった。 自分の部屋で君が帰宅するのを待っている最中、一番上の兄の友人だという女性が部屋に入ってきて、兄を待っているあいだ暇だからと僕は押し倒された。 そして、よくわからないうちにそれは終わって、僕は呆然とした。 そのあと、珍しく一番上の兄が僕の部屋を訪ねてきて、女性から話を聞いたのかしたことを確認してくる。 兄に怒っている様子はなかったが、いつもの僕に向ける無の目ではないような気がした。 そして、僕が黙っていると勝手に言葉を並べ始めた。 童貞は反応はいいけどやっぱり下手で気持ちよくない、でも、僕のは少し大きかった。 あの女性が言っていたらしい。 正直勉強なんてクソほどどうでもいい、学歴は単なる飾りだからなくても困らない。 兄はそう言いながら嘲笑する。 優秀であることより金を稼げる奴の方がすごい、金で大体のことはどうにかなる。 兄は両親をことを否定した。 本当に欲しいなら、捕まえる側にならないと逃げられるぞ—— 兄が何を言いたいのかよくわからなかった。けれど、君のことを言ってるのはわかった。 あと、セックスが下手な男は嫌われるから適当に練習しとけ、と言い残して部屋を出ていった。 気まぐれ、同情、怒り、戯言。どういうつもりで兄は言ったのか。 僕にどうしろというのか。僕は、どうしたらいいのか。 携帯が鳴った。今帰ってきたと君からのメッセージ。 無性に君に会いたくてたまらなかった。 いつものように君の家を訪ねて、いつものように君の部屋に行き、いつものように君が迎えてくれた。 でも、君は僕の様子がおかしいことに気づいたのか、僕の隣に座って言った。 大丈夫、何があっても一緒にいるのは変わらないから、と。 僕は泣きそうになって思わず顔を逸らした。 すると、君はいつものように今日の出来事や何気ない話をし始めた。僕の手をぎゅっと握って。 いつものように応えられない僕に、いつものように笑ってくれる君。 僕は君が好きだと思った。恋とか愛とか多分そういう意味で。 じゃないと、今の気持ちに理由がつけられない。 本当は怖かった、悲しかった。 何とも思ってもない女性に体だけは反応してしまったことに。 なんで相手が君じゃなかったんだろうと思ってしまったことに。 君がいつか誰かとこれをするのかと想像してしまったことに。 君の言葉だけを信じたい。でも、兄の言葉が頭の中をよぎる。両親の言葉がこびりついて離れない。 話しながら寝てしまった君を見つめる。 きっとこのままじゃ捕まえる側にも捕まえられる側にも僕はなれない。 中途半端な僕はやっぱり出来損ないだと思った。 でも、変わるものと変わらないものがあるとするなら、変わらないもののために変わるしかない。 これからも君とずっと一緒にいられるように。 自分で見つけたバイト先はIT関係の会社だったが、仕事はもちろんお金の稼ぎ方もここで教えてもらった。 結局は大学を卒業したあとも仕事をもらったり、今でもお世話になっている。 一度違うバイトをして両親に見つかったとき、バイト代を全部取られて、それより勉強しろと怒られた。 それからは、バレないようにバイトをしてお金を貯めた。 そして、バイト代で盗聴器を買った。 初めて君の部屋につけて、君の声がイヤホン越しに聴こえたときの感動は忘れない。 少しずつ数を増やして、君の持ち物にも忍び込ませて、カメラも買い足して、君の言葉を行動を思い出を、できる限り記録した。 君と僕の邪魔をしてくる奴らも掃除した。 いろんな掃除の仕方を覚えたが、できれば君には知られたくない。 それから、一回も二回も変わらないと僕は他の女性を利用して経験を積んだ。 不快だった。吐き気がした。反応してしまう体に、性に、欲に。 でも、君とするときのためにと言い聞かせて、割り切って、それを続けた。 だから、君に他の女性と一緒にいるところを見られて、笑っておめでとうと言われたとき、後ろめたさよりも腹立たしさで頭がおかしくなりそうだった。 君が僕をそういう対象で見ていないことを思い知るたびに、僕は自分が劣等であることを思い出す。 君はどこまで僕を見てくれている? どこまで僕をわかってくれている? 君は本当の僕を、本当に知ってくれている? 君を捕まえるには、まだ足りない。あとどれくらい。もっといっぱい—— 君が大学に合格して、春から一人暮らしをすることになった。 今の君の家からだと通学にニ時間以上かかるので、そうなるのは当たり前だった。 けれど、君の両親は小さい君の弟の世話もあって、君の様子をあまり見に行けないことを心配していた。 君もそれを聞いてどの辺りに住むか悩んでいるようだった。 だから、僕は提案した。 僕の隣の部屋が空いてるので、そこだったらどうか、と。 僕は大学に入ってすぐにマンションで一人暮らしを始めた。 とはいえ、時間があれば君の家に顔を出していたので久しぶり感は全くない。 そして、僕が通う大学はもちろん君がこれから入学するところだ。 両親に大学受験は最後のチャンスだと言われた。 でも、中高と同じようにわざと失敗して、父親に初めて殴られた。 それから、自分の実家には帰っていない。 君の両親は僕が隣に住んでいるのなら安心だ、と大手を振って提案に賛成してくれた。 長年の付き合いで積み上げた信頼をやっとここで使えた。 また隣同士に戻れて嬉しい、と君は笑った。 これからの新生活にわくわくしているのが見てとれる。 僕が君の頭を撫でると、君はいっそう笑顔を深くさせた。 隣の部屋は半年前に空き部屋になってから、僕が契約している。 なかなか出ていってくれなくて結構大変だったけれど、君をここに呼ぶためならどうってことはない。 これでまた一緒にいられる。今度は本当の二人っきりにもなれる。 だけど、焦ってはダメだ。時間をかけて、やっとここまで来たのだから。 だって、君はまだ知らない。いや、知らなくていい。 恋とか愛とか、そういう感情を。 これからゆっくり、僕が教えていくから。あとから全部、僕が教えてあげるから。 誰のものにもならないで。ただ僕とずっと一緒にいて。 君に望むのはそれだけ。今は、それだけ。 それ以外は、受け入れてあげる。許してあげる。守ってあげる。 君を何より大切にしたい、そのままの君でいて欲しい。 その気持ちに嘘はないのに、君が動かなくなったときのことを考えてしまう。 でも、もしそうなっても、僕はきっと君を大切にできる気がする。 あの綺麗な蝶のように。 そんなことを考える僕は、もうどこか狂っているのかもしれない。 だから、信じさせて。君が紡いだ言葉を、君と過ごした時間を。 君が僕のことを信じてるように、僕も君のことを、信じてる——