XX22年 1月1日(土) 去年とは違い、とても素敵な一年の始まりだった。 私は、ゆいか先輩と待ち合わせをして、初詣に行って来た。 今日の彼女はクリスマスとはまた違った装いで、 あの日とは異なる、でもすごく絵になる美しさだった。 参拝までの列がすごいことになっていたけど、 待っている間はお喋りして過ごすので、全く苦にならない。 逆に、この時間が長く味わえるから嬉しいぐらいだ。 「望月、何お願いしたの?」 参拝が終わった後、そう聞かれた。 「ゆいか先輩より速く走れますようにって」 「はは。お願いするぐらいの目標なんだね。  そこまで思ってもらえて嬉しいよ」 「ゆいか先輩は何をお願いしたんですか?」 「んっとね、それは言えないかな」 「何ですかそれ、私にだけ言わせてずるい」 そんな感じの会話をしながら、神社を出た。 その後も一緒にいたかったが、 ゆいか先輩は家族との予定があるということで 解散になった。 ああ、本当に素敵な元旦だったわ。 今年はいい一年になる気がする。 1月3日(月) 昼間に母が帰って来て、夜には父が帰って来た。 家族の姿を見るのは今年初だ。 まあ、どうでもいい。 明日からの部活が楽しみ。 1月4日(火) 部活。 久しぶりに走ったが、かなり調子がいい。 ゆいか先輩も調子がいいみたいだった。 1月7日(金) 今日から三学期。 陸上部に新入部員がやって来た。 この時期に新入部員? と疑問に思ったが、どうやら彼女は転校生のようだった。 「うぃーっす。一年の藤堂桐子(とうどうきりこ)です。  前の学校でも陸上やってました。  趣味はネイルとSNSです。  あ、でも、ネイルは陸上の時はやらないんで安心して欲しいです」 チャラい。 チャラすぎるわ。 見た目も派手だし、何なのこの子。 それが彼女を見ての率直な感想だった。 「みんな~、藤堂さんは転校してきたばかりで、  分からないことも多いと思うからあ~、  優しくしてあげてね~」 笠原先輩はそう言っていたが、こんなチャラい子に優しく出来る自信はない。 どうせタイムも大したことないんでしょ。 と思っていたら、速かった。 笠原先輩と同じぐらい? 私の中で、九重(ここのえ)高校陸上部はゆいか先輩の一強で、 それに私と笠原先輩が続くような状態だと思っていた。 だけどそこに、もう一人入って来た。しかもチャラい。 あまり心中穏やかではない、というのが今の正直な気持ちだ。 1月13日(木) 今日の記録タイムはゆいか先輩、私、笠原先輩、藤堂桐子の順。 ゆいか先輩に一番近い場所にいるのは私。 1月14日(金) 藤堂桐子が笠原先輩の自己ベストよりも速い記録を出した。 笠原先輩は 「ひゃあ~。藤堂さん、すごいねえ~」 と、あまりショックを受けていないようだった。 私はショックだった。 あんなに頑張って越えた笠原先輩を、こんなチャラい子が簡単に越えたのだから。 実は藤堂桐子も努力家? いや、あのチャラさだとそれはないわ。 ゆいか先輩は、あの子すごいね。と笑顔で言っていた。 私はとても笑顔にはなれなかった。 1月16日(日) ゆいか先輩を抜くのが今年の目標、と言うか使命だけど、 藤堂桐子に負けないというのも私の使命だ。 あの子、SNSが趣味とか言ってたけど、どんなことを投稿しているのかしら。 きっとチャラいことばっかり投稿しているに違いないわ。 1月27日(水) 休み時間、藤堂桐子と廊下ですれ違った。 彼女は持ち前のチャラさで、既に何人か友人を作ったみたいだ。 すれ違いざま、彼女が笑顔で手を振ってきたから、会釈で応じた。 本当は無視したかったけど、私は慈悲深いから。 1月30日(水) 「おおー、速いじゃん」 計測係だったゆいか先輩が少し驚くほどのタイムで、 私は自己ベストを更新した。 もう少しでゆいか先輩に追いつける。追い越せる。 「初詣のお願い、現実になったりしてね」 私の目標の人は、ストップウォッチを眺めながらそう言った。 冬のグラウンドの寒さが、熱くなった体には心地よかった。 その後、今度は私が彼女のタイムを計測した。 やっぱり速かった。 2月7日(月) 「ねえねえねえねえ、ありすっちってさ、  バレンタイン、誰にチョコあげる系なの?」 部活中の藤堂桐子の発言に、私は耳を疑った。 ありすっち? 何それ。 私、そんな呼ばれ方したことないわ。 「別に、誰にもあげるつもりはないわ」 「そうなの!? でもさ、バレンタインって  女子の一大イベントなわけじゃん?  何か気になる的な人とかにあげた方がいいんじゃない?」 「あいにく、私はそういった価値観を持ち合わせていないの。  そんな男子に媚びたイベント、興味ないわ」 「ふーんそうなんだ、望月は誰にもあげないんだ」 私と藤堂桐子の会話に、グラウンドにいたはずのゆいか先輩が割り込んできた。 ニヤニヤと口元を緩めている。 「いや、あの、その」 「あ! 遠藤先輩はどうなんですか?  チョコ誰にあげる系なんですか?  ってか、彼氏とかいる系ですか?」 藤堂桐子はデリカシーがない。 デリカシーがないが、いい質問をした。 私はそんなこと、聞けないからだ。 「さあ、どうだろうね」 ゆいか先輩は言葉を濁した後、踵をかえし、グラウンドへ戻って行った。 部活が終わって帰宅して、夕食を作っていると ゆいか先輩からメッセージが届いた。 「ホワイトデーはちょうだいね」 読んだ瞬間、今度は私の口元が緩んだ。 2月14日(月) 素敵な一日だった。 朝、ゆいか先輩から、 今日部活の後一緒に帰ろ。 とメッセージが届いた時から、私は胸を躍らせていた。 これは、チョコレートをもらえる流れだ。 ドキドキしながら授業を受け、部活を終え、 ゆいか先輩と二人で帰路に着いた。 いつくれるんだろう、いつくれるんだろうと期待でいっぱいの私を焦らすように 彼女は何も言わずしばらく歩き、人通りがなくなったタイミングでカバンの中に手を入れた。 「望月、はい、これ。バレンタインチョコ」 差し出されたそれは、とても綺麗にラッピングされていて 二年前に友チョコとして渡されたものよりも思いがこもっている気がした。 それに、暗がりだからはっきりとは分からないけど、ゆいか先輩の顔が紅潮しているように見える。 「ねえ、楽しみにしてくれてた?」 「はい、すごく楽しみでした」 「そっか。ありがとう」 「こちらこそですよ、ありがとうございます」 「ホワイトデー、期待してるからね」 ゆいか先輩の思い、感情の熱量が増したのはいつからなんだろう。 今の彼女の私に対する感情は、出会ったときよりも熱くて、重たいように感じる。 でもそれは不快なものではなく、むしろ心地よい。 帰宅し、ゆいか先輩にもらった袋を開けたら、その中に箱が入っていて、 蓋を開けると、かわいらしいハート型のチョコレートが入っていた。 チョコレートは、とてもとても美味しかった。 シャーファにたくさん自慢して、ゆっくり味わって食べた。 2月15日(火) 「ねえねえねえねえ、ありすっち、  何か今日機嫌よさそうだね」 「別にそんなことない……わけでもないわ」 「えー、何かあったの? 教えて教えて」 「秘密よ」 「そっかぁ。何にしても、機嫌がいいのはいいことだね。  ありすっちの今日の顔、私好き」 部活の休憩中、藤堂桐子とそんな話をした。 彼女はチャラいけど、悪い人間ではないのかもしれない。 2月23日(水) 図書館でお菓子作りの本を借りてきた。 バレンタインにゆいか先輩がくれたチョコレートはとても美味しかったし、 彼女の気持ちを感じた。 それに、ホワイトデーを期待してるとも言ってくれた。 だから、私は今年のホワイトデーは本気の本気でいく。 2月27日(日) ホワイトデーにゆいか先輩にあげるお菓子は何がいいかを考えていたら、 一日が終わっていた。 2月28日(月) 決めたわ。 今年のホワイトデー、ゆいか先輩に渡すのはマドレーヌにする。 それも普通のマドレーヌじゃなくて、 うさぎをかたどったチョコマドレーヌよ。 3月2日(水) マドレーヌを作ってみた。 我ながらいい出来。 ただ、今年のホワイトデーは万全の状態でいきたいから、 自分の味覚で判断するだけでなく、他の人の感想も取り入れていきたい。 広田さんにメッセージを送ったら、忙しいと言われたし、 如月くおんは受験が終わっていない可能性がある。 笠原先輩は優しすぎるから、こういうのには向かなそう。 どうしようかしら。 3月5日(土) 卒業式だった。 卒業生には申し訳ないのだが、ホワイトデーのことばかり考えていた。 陸上部三年の先輩方に軽く挨拶をして、早々に帰宅した。 3月7日(月) 今日から金曜日まで学年末テスト。 なのに引き受けてくれるなんて、 彼女はテストに無関心なのか、それともよっぽどの善人なのか。 3月9日(水) 「ありすっち、来たよぉ。用って何?」 「藤堂さん、これからすることは絶対に秘密にしてくれる?」 「秘密にするってば。誘われた時も言ったじゃん」 「ありがとう。じゃあ早速だけど、これ」 私は、ホワイトデーの試食を藤堂桐子に依頼することにした。 テスト期間中にも関わらず、彼女はそれを引き受けてくれた。 昼下がり、テストが終わり誰もいなくなった教室で、 私は彼女に三つのマドレーヌを差し出した。 1、2、3とそれぞれに番号をつけてある。 「え! なにこれ、かわいいんですけど」 「私が作ったの。藤堂さんはこれを食べて、率直な感想を聞かせて」 ありすっちが作ったの? すごい! と、彼女は拍手をしてくれた。 SNSが趣味の藤堂桐子のことだ。もしスマホで写真を撮るようなことがあったら そこで試食は終了にしようと思っていたが、彼女はそんな素振りを見せなかった。 「じゃあ、遠慮なく……ん、美味しい!」 「ありがとう。他のも食べて」 全種類を食べたうえで忌憚なき意見を聞かせて欲しい。という私の要望に、 目の前のチャラい女子は真摯に答えてくれた。 「えっとねぇ、全部すっごく美味しかったよ。もっと食べたいぐらい。  でね、私的には『3』が一番好きかも、一番甘かったから。  逆に『1』はちょっと大人向けというか、この中だと私には合わなかったかな。  あと、全体的になんだけど、シナモン使ってある?  少しだけ、本当に少しだけなんだけど、シナモンの風味が強すぎるかなって思っちゃった」 私は、藤堂桐子のことを見直した。 いや、きっと、彼女はもともとこういう人間なのだ。 見た目や趣味で私が勝手にチャラいと判断していただけで、 彼女はとても真面目で、優しい子なのだ。 「なるほどね、助かったわ。ありがとう」 「ねえありすっち、これって誰かにプレゼントする系なの?」 「それは秘密よ」 「えー、今日のことも絶対秘密にするし、教えてくれたっていいじゃん」 「ダメ」 「ふーん、ありすっちのけちんぼ」 そんなことを話ながら、彼女と帰宅した。 3月13日(日) 明日、ゆいか先輩に渡すチョコマドレーヌを作った。 すごくいい出来だ。 藤堂桐子の意見を反映してシナモンパウダーの量を減らしたら、 とても美味しく仕上がった。 二匹のうさぎをかたどったチョコマドレーヌ、 そこにチョコペンを使ってホワイトチョコで顔を描いた。 これは、私とゆいか先輩をイメージして作ったもの。 ゆいか先輩、喜んでくれるかしら。 喜んでもらえたら嬉しいわ。 3月14日(月) 最高のホワイトデーだった。 部活が終わった後、私はゆいか先輩と一緒に帰っていた。 バレンタインのお返しを渡すために、私が誘ったのだ。 帰り道のどこかで渡そうと思っていたのだが、 今日は何故か人通りが多くて、ラッピングした袋を出すのが恥ずかしかった。 「ね、望月、ちょっとだけお茶しない?」 察したのか、ゆいか先輩がそう提案し、私たちは駅ビルの喫茶店に入った。 お店の奥の方にある席は空いていて、私たちの隣と、その隣まで誰も座っていなかった。 「さて、私の可愛い後輩は、今日何をくれるのかな」 コーヒーを一口飲んだ後、ゆいか先輩は私に向かって言った。 口角を上げ、優しく微笑んでいる。 やっぱり、察してくれていたんだ。 私はカバンの中から、目的のものを取り出す。 「これ、バレンタインのお返しです」 テーブルの上にそれを置くと、 彼女はまるで宝物を受け取るかのように、 そっと、大切そうに自分のもとへと寄せた。 「望月、開けていい?」 彼女が聞いて来た。おねだりするような声だ。 「いいですよ。あ、でも、前みたいに食べるのはやめてくださいね。  お店の中ですから」 「大丈夫。そこらへんはわきまえてるよ」 繊細な手つきでラッピングを開けた後、 登場したマドレーヌを見て、彼女は手で口をおさえた。 「これ……」 そう言って、ゆいか先輩は無言になってしまった。 喜んでいるのか、そうでないのか分からない。 「えっと、ゆいか先輩と私をイメージして作ってみたんですけど、  どう、ですか……? あの、もしかしてマドレーヌ嫌いでした……?」 「食べられない……」 「え」 その瞬間、視界から色がなくなって、時間が止まった気がした。 「こんな嬉しいの、勿体なくて食べられないよ」 時間はすぐに動き出した。 彼女の頬は朱に染まっており、眼は喜びの感情を描いている。 「そんな、ちゃんと食べてくださいよ。食べ物なんですから」 「うん、分かった。ちゃんと食べるね」 幸せそうな笑顔を浮かべたままうつむいて、胸に手を当てるゆいか先輩。 何年もの付き合いがあるけど、こんな光景を見るのは初めてだった。 あんなに喜んでくれるなんて、本当に良かったわ。 帰り道で一人になった時、私はあまりにも気分が良くてスキップしてしまった。 もう16歳だというのに。 3月23日(水) 終了式。 部活も休みだったので、ゆいか先輩と笠原先輩と藤堂桐子でカラオケに行ってきた。 ゆいか先輩の歌はすごく上手で、聴き惚れてしまった。 藤堂桐子はノリノリでテンポの速い曲を歌っていて、 ときおりシャウトしたりして、何だか自分の世界を持っているように感じた。 笠原先輩は、わあ~、みんな上手だねえ~と言って、 どんな曲でも、嬉しそうに手拍子をしている。 私も笠原先輩の真似をして、手拍子をした。 みんなで集まって何かをするというのは、楽しくて、居心地が良い。 いい一日だった。 4月3日(日) 自己ベストを更新した。 私も、藤堂桐子も。 危ないところだった。 藤堂桐子のタイムは、昨日までの私の記録よりも速かったのだ。 私が今日、自己ベストを更新していなければ、 ゆいか先輩に一番近い場所を奪われるところだった。 4月4日(月) 始業式。 私は二年生になり、藤堂桐子と同じクラスになった。 「ありすっち、おんなじクラスだね。  うぇ~い」 嬉しそうに拳を突き出す彼女。 拳と拳を突き合わせるやつをやろうとしているのだろう。 そうね、とだけ答えて頬杖をついていると、 「うぇい、うぇい」 と拳を前後に動かしてアピールしてくる。 何なの、このノリ。 彼女は優しいし走るのも速いしよく出来た女の子だと思うけど、 このノリだけは若干苦手だ。 でも私は慈悲深いから、拳をコツンと合わせてあげた。 「うぇ~い。一年間よろしく~」 「よろしくね」 今日だけで、「うぇい」という言葉を一年分は聞いた気がする。 まあでも、それはそれとして、彼女のことは嫌いではないので、 同じクラスになれたのは悪くない気分だわ。 4月5日(火) 入学式。 新入生たちが拍手で迎えられ、体育館へ入って来た。 私は、去年ゆいか先輩が居た場所の近くに座っていた。 なるほどね。確かにここからだと、新入生の顔がよく見えるわ。 4月6日(水) 国語の授業中、藤堂桐子が朗読をするように言われた。 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少しあかりて」 彼女の音読はすごく上手で、この前うぇいうぇい言っていたのと ギャップがありすぎて、授業中に笑ってしまった。 「ありすっち、私が朗読してたとき、笑ってたでしょ」 「知らないわ」 「絶対笑ってたよ。私聞こえたもん」 「だって藤堂さんがあんなに上手だって思わなかったから」 「何さ、私が朗読頑張ってたらギャグになるの?」 「違う。それは違うわ。ただ……」 ここでも笑ってしまった。 藤堂桐子も笑っていた。 何だか最近、毎日が楽しい。 前は、ゆいか先輩を追いかけている時間だけが楽しかった。 でも今は、学校にいる間、いろんなことが楽しい。 4月9日(土) 「今年の九重、もしかしたら県予選突破出来るかもしれないね」 部活が終わった後、顧問がそう言った。 「遠藤はかなり高い確率でいけると思う。  笠原、望月、藤堂も相手次第だけど、いけるんじゃないかな」 今の九重高校陸上部は、ここ数年では最も強いらしい。 その中に私がいることが素直に嬉しい。 4月14日(木) 最近の陸上部は、新入部員がたくさん入って来て賑やかだ。 今日は笠原先輩が自己ベストを更新した。 「真紀、いい感じだね」 「新入生もたくさん入ったからね~、頑張っちゃったあ~」 そんな会話をするゆいか先輩と笠原先輩を、 新入生たちは憧れの目で見ていた。 4月23日(土) よし! やってやったわ。 今日は陸上の大きな大会の支部予選だった。 九重高校からは、私と、ゆいか先輩と、笠原先輩が予選を通過した。 ゆいか先輩は自己ベストを更新していた。 このタイミングで更新だなんて。 「もっている」という言葉があるが、それは彼女のような人に対して使うべきなのだろう。 遠藤結花は「もっている」女性だ。 藤堂桐子は予選を通過出来ず、どこか腑に落ちないような表情を見せていた。 あと、同じ中学校だった広田さんも予選を通過していた。 大会が終わった後、彼女は私のところへやって来て、少し話をした。 「望月さん、予選通過おめでとう」 「広田さんこそ、おめでとう」 彼女とグラウンドで話をすると、途端に空気が中学校時代のようになる。 不思議だ。 4月25日(月) この前行われた大会で、県予選に進めなかった三年生は任意で引退となる。 引退を希望する部員はもう部活に顔を出さなくていいし、 続けたい部員は11月末の大会まで参加が許可されている。 今年の三年生部員は、全員今日の部活にやって来た。 やる気なのね。 4月29日(金) 今日から連休。 部活から帰って来たら、母がリビングにいた。 父と母は、私が大学を卒業したら離婚することが決まっている。 そうなったら、この家にはもういられなくなるのかしら。 考えていたら、何故か気持ちが沈んだ。 この家に思い出なんてないのにね。 もし引っ越すことになったら、シャーファだけは連れて行こう。 5月1日(日) 部活は休み。 親もいないし、何もない一日だった。 5月4日(水) ゆいか先輩に誘われて、彼女の家に遊びに行って来た。 久しぶりに訪れるゆいか先輩の部屋の机には たくさんの参考書や、大学のパンフレットが積んであった。 そうだ、彼女は高校三年生で、きっと大学受験を控えているのだ。 英語の参考書や実用書がやけにたくさんあって、 英語が苦手なのかな、とか思ったりした。 「ゆいか先輩って、やっぱり大学行くんですか?」 「うーん、大学は行かないかな」 「じゃあ、専門?」 「望月、私、この話題嫌だな」 困った表情の彼女を見て、私ははっとした。 きっと、進路のこと、将来のことでいろいろと考えることがあるのだろう。 それに気付かず、デリカシーのない質問した自分を恥ずかしく思った。 その後の会話はお互い気を遣っていて、少しだけギクシャクしていた。 5月5日(木) 学校は休みだが、昼から部活。 ゆいか先輩は昨日のことを全く引きずっていなくて、安心した。 5月10日(火) ゆいか先輩が自己ベストを更新。 県予選を前にしてのタイム短縮に、顧問も部員も沸いていた。 日曜日は県予選。 5月15日(日) ああ、素晴らしい一日だったわ。 今日行われた陸上の大きな大会、県予選で、 私とゆいか先輩の二人が上位となり、 次に行われるブロック予選へ進出することになったのだ。 「県予選を突破できるのは本当にすごいこと。  遠藤も望月もありがとう」 大会後、顧問がそう発言し、部員全員が私とゆいか先輩に拍手をしてくれて、 とてもいい気分だった。 「去年はここで終わりだったから、  先に進めるの嬉しいな。  望月も一緒だし」 拍手の中で、ゆいか先輩は満足げに目を細め、そう言った。 その後は、顧問も一緒にファミレスへ行った。 「ゆいかちゃんと望月さんの県予選突破を祝して、  かんぱぁ~い」 笠原先輩が音頭を取って、部員全員で乾杯した。 彼女自身のブロック予選への進出はかなわなかったが、 それでも嬉しそうな表情をしていた。 藤堂桐子は、来年は私もブロック予選行くよ! だから今日はたくさん食べる! と、よく分からない理屈でハンバーグとエビフライを食べていた。 みんな笑顔だった。 九重高校陸上部の全員が喜んでいた。 食事が終わっても、いろんな話をして盛り上がり、 ファミレスを後にした頃にはすっかり日が沈んでいた。 帰り道、ゆいか先輩と二人きりになった。 「望月、次も頑張ろうね」 「はい。頑張りましょう」 「私、最後まで望月には勝たせてあげないから」 「私は勝つつもりですから」 今日の私たちのタイムは、もう僅差と言ってもいいものだった。 ゆいか先輩に勝つ。 中学時代から抱いている目標は、もうすぐ達成されようとしている。 5月16日(月) 今日から中間テスト。 昨日体力を使ったせいか、問題を解いた後、寝そうになってしまった。 5月20日(金) 中間テストが終わって今日から部活。 「てか、遠藤先輩とありすっちって、ワンチャン全国行けちゃう系じゃね?」 私とゆいか先輩のタイムを計測していた藤堂桐子が言った。 ブロック予選を突破すれば全国大会が待っている。 部員たちはみんな、それを期待している。 でも私にとっては、全国大会よりも、ゆいか先輩を越えることの方が重要だ。 5月23日(月) 中間テスト、全ての教科が返って来た。 今までに比べ、若干点数が下がっていた。 いけないわ。 勉強は勉強でしっかりやらなきゃ。 6月1日(水) 図書館に行って、ランニングに関する本を借りて来た。 定期的に新しい本が入荷されるのは助かる。 常に新しい知識を頭に入れておくことができるから。 6月4日(土) ブロック予選まであと二週間。 ひたすら走った。 6月5日(日) 部活は休み。 最近、自分を追い込んだ練習をしているので、 休養日がありがたく感じる。 リビングに飲み物を取りに行ったら父と母がいた。 普通の家では当たり前のことだろうが、 私の家では珍しいことだ。 6月16日(木) よし、自己ベスト更新。 タイム計測をしていた笠原先輩と、 その近くにいた顧問が、顔を見合わせてニッと笑った。 それを見て、私も笑った。 6月17日(金) 今日の部活は顧問の指示により、私とゆいか先輩は見学になった。 疲れが明日に残ると大変だから、というのが理由らしい。 なので、二人で部員たちが走るのを見ながら、のんびりしていた。 退屈するかなと思っていたけど、そうでもなかった。 「今日はゆっくりお風呂に入って、あ、シャワーじゃなくて湯船ね。  夕食は食べ過ぎないようにして、それで、たくさん寝ておくこと」 部活終わり、顧問は私たち二人にそう言った。 はい。とゆいか先輩が返事をし、私もそれに続いた。 帰宅後、私はお風呂を綺麗に洗って、湯船にお湯をはって、それに浸かった。 入浴剤を二ついれた。 長時間ぬるめのお湯に浸かると筋肉がほぐれる、と本に書いてあったから、その通りにした。 湯船から出て栓を抜くと、入浴剤の色をしたお湯が排水溝へ吸い込まれていく。 私の家のお風呂は、その時使う人間が洗って、湯船にお湯を張って、お風呂から出たら栓を抜く。 というのが暗黙のルールになっている。 仲の良い家族だったら、誰かがお風呂を焚いて、それを使いまわしたりするのかしら。 私たちにもそんな時期があったような気がするけど、 ううん、ダメ。そんなことを考えている場合じゃない。 明日の大会に集中。 ブロック予選、ゆいか先輩に勝つには最高の舞台よ。 私は勝つ。 絶対に。 6月18日(土) 負けた。 今日行われた陸上のブロック予選で、 私たち九重高校陸上部は、大敗を喫した。 私も、ゆいか先輩も、全国大会へ行くことは出来なかった。 私は今日の結果に、悔しさを隠しきれなかった。 「全国行けなかったのは残念だったけど、ゆいかちゃんも望月さんも頑張ったよ。すごかったよ」 笠原先輩はそうやって私たちを慰めてくれたが、 私が悔しいのは全国大会へ行けなかったからではない。 今日もまた、ゆいか先輩に負けたのが悔しかったのだ。 いつまで負け続けるんだろう。 この前自己ベストを更新して、本当に、いよいよ勝てると思っていたのに、負けた。 勝つには最高の舞台だと思っていたのに、負けた。 ゆいか先輩はこれから先どうするんだろうか。 他の三年生と違い、彼女は今日、このタイミングで任意の引退となる。 彼女が今後部活への参加を希望しなかった場合、 私は負けたまま、一度も勝つことがないまま、私たちの物語は終わる。 進退を聞きたい気持ちはあったが、出来なかった。 彼女の纏う空気が、人を拒絶していたからだ。 6月19日(日) 「昨日はお疲れ。これから会える?」 夕方に、ゆいか先輩からメッセージが届いた。 会えないわけがない。 すぐに返信をして、駅ビルの喫茶店で会うことになった。 ホワイトデーに来た喫茶店だ。 一見混んでいるように見えるが、奥の席は空いている。 「望月、昨日はお疲れ様」 ガムシロップを二つ入れたアイスコーヒーを少しだけ口に含んだ後、 ゆいか先輩は優しい笑顔で言った。 「負けちゃったね」 「はい」 「悔しかった?」 「悔しくないわけがないですよ」 「そうだよね」 「ゆいか先輩も悔しかったですか?」 「私は……私は、そうだね。  悔しいっていうより、悲しかったかな」 「悲しい?」 「私、自分なりにだけど陸上頑張って来たつもりなんだよ。  高校に入ってからは特にそうだった」 話しながら、ゆいか先輩がストローでカップの中をかき混ぜる。 氷たちが、黒い液体の中を泳いだ。 「それでさ、頑張れば頑張るほど新しい景色が見えて来て、  今年はタイムもいいし、もしかしたら全国に進めるかもって、  もっと新しい景色が見られるかもって思ってたの。  なのに、あんなにあっさり負けて……。  人生って残酷だなって、悲しくなっちゃった」 話しながら、少しずつ、彼女の表情が変わっていく。 口角を上げて無理矢理笑顔を作っているが、目は笑っていない。 「たまにね、世界が私を否定しているような気分になることがあるの。  昨日はそんな日だった」 世界が私を否定している。そんなこと、私は考えたことがあっただろうか。 ゆいか先輩は、悲観に暮れた目をしている。 さっきから変わらず口角を上げて、無理矢理笑顔を作っているが、とても歪だ。 「ごめん。何か暗くなっちゃった」 その後、会話が盛り上がることもなく、時間だけが過ぎた。 明日以降の部活に参加するかどうか、今日も聞けなかった。 6月20日(月) ゆいか先輩が部活に来た。 「望月、昨日はごめんね。  11月までよろしく」 笑顔で告げる彼女を見て、 私は心の底から安堵し、そして喜んだ。 もう少しの間、ゆいか先輩と走れるんだ。 私は、彼女に勝つことよりも、彼女と走れることを喜んでいた。 6月22日(水) 相手と一緒に走る→相手に勝つ→嬉しい 一緒に走る相手がいない→勝つ相手がいない→何もない 相手が引退後に記録という点で勝つ→あまり嬉しくない(全く嬉しくないわけではない) こんな感じかしら。 前提として一緒に走る、があるわけね。 7月4日(月) 今日から金曜日まで期末テスト。 今回は中間テストのような失態は犯さないわ。 7月13日(水) 期末テストの全科目が返却された。 いい感じだったわ。 購買で藤堂桐子とパンを買って、一緒に食べた。 そう言えば、藤堂桐子は私と一緒で、昼食はいつも購買だ。 私と同じような家庭環境なのかしら。 って、それは邪推ね。 7月19日(火) 部活。 ゆいか先輩がここでまたベスト更新。 先月のブロック予選後の暗い感じが嘘だったかのように、 今の彼女ははつらつとして、輝いている。 そうよ、それでこそゆいか先輩よ。 7月21日(木) 終業式。 午後からは部活だった。 今日も勝てなかった。 一緒に走れるのは嬉しい。 でも、やっぱり勝ちたい。 8月5日(金) 部活が終わった後、藤堂桐子に誘われてファミレスに行ってきた。 「ありすっちってさあ、SNSとかやんない系?  楽しいよ」 桃のパフェの写真を撮りながらそう告げる彼女に、 気が向いたらやるわ。と答えた。 でもきっとやらないわ。 8月18日(木) 17歳の誕生日だった。 一万円札が机の上に置いてあった。 それだけだった。 明日から陸上部の合宿。 誕生日はどうでもいいけど、合宿は楽しみ。 8月22日(月) 合宿から帰って来た。 今年の合宿は、何とも言えない感じだった。 原因は三日目の夜、つまり昨日の夜だ。 就寝時間を過ぎ、みんなが寝静まった頃 宿舎の外にあるベンチに私とゆいか先輩は座っていた。 去年とは違う場所だ。 「もうすぐ高校生活も終わりかあ」 思いふけるように話すゆいか先輩に、 卒業後の進路を聞こうとしてすぐにやめた。 前に進路の話をして、困った顔をされたことを思い出したからだ。 「望月、今日、自己新出したらしいじゃん」 「はい。一応」 「私の前の記録、抜いたんだよね?」 嬉しそうに目を細めて、彼女は訊いて来た。 そう、私はこの日、自己ベストを更新し、 ゆいか先輩がブロック予選前に出した記録を抜いたのだ。 「そうですね。何とか」 「じゃあ、そろそろかもね」 「何がですか?」 「言わない」 でも、分かってるでしょ? そんな意志を感じる眼差しを私に向けた後、 彼女はふぅっと息を吐き、夜空を見上げる。 満月だった。 「私、望月に出会えてよかった」 月の光に照らされた彼女の横顔は、とても美しかった。 「今のうちに言っておくね。  望月、ありがとう。  いっぱいの幸せをありがとう」 そう言って、ゆいか先輩は私の方へ向き直り、笑みをたたえた。 何故急にこんなことを言い出すんだろう。 疑問を唱えようとしたら、彼女は人差し指をたて、私の口元にあてがった。 「今は私の話を聞いて」 こうされると、はいとしか言えない。 「これから私たちの関係がどうなっても、  望月と過ごした日々は私にとっての宝物だから。  とっても大切な宝物」 笑顔の中から不穏な言葉が飛び出した。 私たちの関係がどうなっても? これから何が起こるの? 聞きたかった。でもまた、言わないって返される気がして聞けなかった。 本当は、聞くのが怖かった。 合宿中に自己ベストを更新したときのことや、藤堂桐子が持ってきたトランプで遊んだこととか、 嬉しかったこと、楽しかったこともたくさんあった合宿だけど、 昨夜のゆいか先輩の不穏な言葉が、一番心に残ってしまった。 日記に書くと少しはスッキリするかなと思っていたけどそうでもない。 ゆいか先輩、私たちの関係がどうなってもって、どういうことなんですか? 8月25日(木) 部活。 ゆいか先輩はいつも通りに走っていた。 9月1日(木) 始業式だった。 クラスメイトに会うのは久しぶりだった、一名を除いては。 「ありすっちとは夏休み中も会いまくってたから、  久しぶりって感じしないよね。うぇ~い」 藤堂桐子の底抜けに明るい感じ、最初はチャラくて苦手だと思っていたけど、 今はそうでもない。 ま、あのノリには合わせることは出来ないけど。 9月3日(土) 合宿の時のゆいか先輩の言葉について考えている。 9月4日(日) 分かった! 分かったわ! ゆいか先輩のあの言葉の意味が! 「私たちの関係がどうなっても」というのは、 私たちが九重高校の先輩後輩という関係でなくなっても、 ということなんだわ。 きっとそうよ。 「今のうちに言っておく」っていうのは、 11月の大会が終わった後、恐らく忙しくなるからね。 大学進学にしても専門にしても、受験前は忙しいから、 そういうのを言う時間が取れなくなるって思ったのね。 ああ、何だか安心した。 私、勝手にゆいか先輩の言葉を重く受け止めて、バカみたい。 冷静に考えれば、あれは彼女からの純粋なありがとうの気持ちだったのよ。 ゆいか先輩、勝手に不安になってごめんなさい。 9月5日(月) 部活を終えて帰宅すると、両親とも家にいた。 何も喋らなかった。 離婚するときも無言だったりするのかしら。 まあ今は家族のことなんてどうでもいいわ。 ゆいか先輩の言葉の意味も分かったし、 彼女に勝つことに集中よ。 9月19日(月) 学校が休みで、部活もお昼には終わったので、 図書館に行って夕方まで勉強室で本を読んでいた。 夜ご飯はスペイン風オムレツを作った。 とても美味しかったけど、大きく作り過ぎてしまって、全部は食べきれなかった。 明日の朝ご飯にしようかしら。 9月20日(火) 昨日作ったスペイン風オムレツをパンに挟んで、昼食用に学校に持って行った。 そこそこの量があって昼食には重すぎるので、 藤堂桐子にも半分分けてあげることにした。 「え!? ありすっちサンドイッチくれるの! しかも手作りとか女神か!」 そう言って彼女は、嬉しそうにサンドイッチを頬張った。 これ美味しい! さすがありすっちだよ。と言われて、私の口元が緩んだ。 今後夕食を作り過ぎた時は、こういう風にしよう。 10月11日(火) 今日から中間テスト。 部活がないのがもどかしいわ。 10月15日(土) 昨日テストが終わって、今日から部活再開。 ゆいか先輩は11月19日の大会で引退することになっている。 あと一か月強、その間に私は必ず勝つ。 越えてみせる。 10月23日(日) 陸上の大会。 今日も私はゆいか先輩に勝てなかった。 次の大会が、彼女の参加する最後の大会だ。 今、私は胸を焦がすような感覚に襲われている。 これは、三年前に感じていた焦燥感と同じものかもしれない。 後一か月で、もうゆいか先輩とは走れなくなる。 嫌だ。勝てないまま終わるのは嫌だ。 10月26日(水) 部活は休みだったが、笠原先輩に呼び出された。 「望月さんって~、  陸上部の部長、やってみる気、ないかな~」 彼女は部長の候補として私を選んでくれたようだ。 光栄なことだが、辞退した。 ゆいか先輩がいなくなった後の自分が想像できないからだ。 もしも、もしも私が勝てないままゆいか先輩が陸上部を去ったら、 その後の私がどうなるのか、本当に想像がつかない。 11月4日(金) 部活の日はいつも、ゆいか先輩と並走させてもらっている。 今日も彼女の背中を追うことに終始した。 11月5日(土) 文化祭だった。 とある音楽家の作品について、解説を事細かに行う展示。 というものが、私のクラスの出し物だ。 クラスメイトが夏休みの自由研究でやって来たものを 少し発展させただけのもの。 今年はこれでよかった。 文化祭に割くリソースを、ゆいか先輩に勝つことに注げるから。 11月6日(日) ゆいか先輩は、高校卒業後も陸上を続けるということはないのだろうか。 もしそうだったら、今月の大会が終わっても一緒に走れるのに。 いや、今はそんなことを考えない方がいいわ。 11月12日(土) 部活後にゆいか先輩と、九重高校とは別の高校の文化祭に行って来た。 彼女は終始ご機嫌で、私との距離が近かった。 お店で売っていたたこ焼きを一つ買って、二人でシェアして食べている時、 「ねえ、何かさ、これって」 とゆいか先輩は言って、すぐに、ううん、やっぱり何でもない。と口をつぐんだ。 その自己完結した言葉を放つ時すらも、彼女はご機嫌だった。 九重高校と違う高校に入るというのは、それだけで新鮮で楽しい。 いくつかの展示を楽しんだ後、廊下を歩いていると、 見慣れた後ろ姿から聞きなれた声が聞こえた。 少しだけ遠くにいるが分かる。如月くおんだ。 制服から鑑みると、この学校に入学したんだろう。 「あぁ~、ゆうき先生にバブみを感じてオギャりてぇ~」 彼女はよく分からないことを言っていて、隣にいる女子が少し困った顔で笑っている。 友人だろうか。穏やかそうな子だ。 「ねえ、如月くお……」 そう言ってかつての後輩に近づこうとしたら、ゆいか先輩に手を引かれて、 階段の近くまで連れていかれ、視界から如月くおんがいなくなった。 「望月。  今日私、望月と二人きりがいいの」 優しく、でも有無を言わせないような感じでそう言われた。 やっぱり距離が近い。 彼女が私の事をどう思っているのか、何となく分かっているつもりだが、 それは大きな見当違いかもしれない。 そしてそれは、簡単には口に出せないことだ。 こういうことを初めて思ったのはいつだっただろう。 意向通り、二人で文化祭を回っているとき、彼女はとても楽しそうだった。 私も楽しかった。 「世界が私を否定しているような気分になることがある」と発言した彼女にとって、 今日の世界はどうだったのだろうか。 私は本当はどうしたいのだろうか。 どうすべきなのだろうか。 分からない。 11月14日(月) ゆいか先輩を越えられるチャンスは今日を入れて5日。 今日も勝てなかった。 11月15日(火) 勝てなかった。 11月16日(水) 今日は部活休み。 すさまじい焦燥感だ。 休みなんていらないからゆいか先輩と走らせて欲しい。 11月17日(木) 勝てない。 どうする。あと2日しかない。 11月18日(金) 今日もダメだった。 あとは明日だけ。 ゆいか先輩を越えるチャンスは明日しかない。 明日の大会の走者一覧に目をやる。 私と、ゆいか先輩と、笠原先輩、藤堂桐子、 中学時代の友人である広田さんも同じレースに出場する。 みんな、良い結果を狙っているだろう。 でもきっと、このメンバーの中で私が一番勝ちたがっている。 明日しかない。 逆に言えば、まだあと一回だけ、明日の大会がある。 全てを出し切ろう。そして、勝とう。 11月19日(土) 終わった。 今私は、陸上の大会から帰宅し、 この後の予定まで時間があるため日記を書いている。 今日はゆいか先輩が参加する最後の大会。 彼女を越える最後のチャンス。 私は、勝った。 書いていてもまだ不思議な感じがする。 私は、中学時代から一度も勝てなかった遠藤結花に勝利した。 ずっとずっと追い続けていた背中を、ようやく追い越した。 レースの始まり、スタートを切った時、 ゆいか先輩は私より先に走っていた。 そこまではいつも通りだった。 しばらくの間、彼女の背中を追い続けた。 これもいつも通り。 その後、彼女と私の距離が近づいていき、横へ並んだ。 ゆいか先輩が遅くなったのではない。 私が加速したのだ。 数秒の間、脳裏にいろんな思いがよぎった。 横に並んでいる。 勝てるかもしれない。 私の方が少し速い。 彼女は私ほど速度が出ていない。 このままいけば勝てる。 勝てる! 私は加速を続け、彼女を抜き去った。 抜き去る時、一瞬、ほんの一瞬だけ振り返った。 ずっと追いかけていた相手を越える瞬間、 その相手がどんな表情をするのか、見てみたかったのだ。 それは私の意地の悪い感情だったのか、 それともただの好奇心だったのか、分からない。 ずっと私の目標だった人物は、私に先を越されて、笑っていた。 どこか寂しげで、儚さを感じるような笑顔で、 彼女のあんな表情を見たのは初めてだった。 そのまま、ゴールした。 タイムは自己新記録だった。 私も、ゆいか先輩も。 走り終わった後、私の眼からは涙がこぼれる。 ずっと目標にしていたことを達成できたという喜びと、 よく分からない寂しさでぐちゃぐちゃになった感情が、 涙として溢れて来たのだ。 ゆいか先輩に目をやると、 彼女は手で顔を覆い、肩を震わせていた。 私の目標であり続けた人も涙を流していたのだろうか。 走り終えたばかりの笠原先輩が、彼女の背中をさすっていた。 「望月、おめでとう」 大会が終わった後、赤くはれた目で、ゆいか先輩は私にそう言ってきた。 「最後の最後で勝つとかすごいじゃん。ドラマみたい。  私も全力出したんだけどな」 どう答えていいのか分からず、私は無言で頷いた。 随分と不遜な態度だ。 「ね、この後みんなファミレスに行くみたいなんだけど、  私たちは二人でお疲れ様会しない?  望月の勝利を祝してさ」 驚いた。 6月の大会で負けた後、誰も寄せ付けない空気を発していた彼女が、 こんな誘いをしてくれるなんて。 私はもちろんその誘いに応じることにした。 その後ゆいか先輩は、せっかくだから今日はお泊り会にしようと言い出し、 夕方6時に彼女の家に行くということになった。 今の時刻は5時21分。移動の時間を考慮してもまだ時間がある。 彼女の家に向かう前に、今日の結果をしばらく眺めていよう。 一位 望月亜里須(九重 二) 二位 遠藤結花(九重 三) 三位 広田梓(棟桜 二) 大会のサイトにアップされた結果が、 今日のことを現実のものだと実感させてくれる。 私は、最後の最後に勝つことが出来た。 良かった。 本当に良かった。 11月20日(日) 取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。 昨日、私は日記を書いた後、ゆいか先輩の家に泊まりに行ってきた。 到着すると、そこには彼女以外誰もいなかった。 私の家ではいつもの光景だが、ゆいか先輩の家では珍しい。 「ゆいか先輩、今日は一人なんですか?」 「うん、家族は追い出した」 「追い出したって」 「実家近いからさ、そこに行ってもらってるの。  お母さんとか望月にめっちゃ会いたがってたけど、ごめんねって感じ」 少しだけ安堵した。 家族仲が最悪なのは私だけで十分だ。 ご飯作ろうよ、と言われ台所に向かうと 卵、玉ねぎ、じゃがいも、ピーマン、ハムなどが置いてあった。 大会が終わって、私が来るまでの間に買ったのだろうか。 「聞いたよ。  望月、桐子ちゃんにオムレツサンド作ってあげたんでしょ」 「はい。まあ、前日の夜の余りものなんですけど」 「桐子ちゃんすっごく美味しかったって言ってたよ。  ね、私も食べたいから作り方教えて」 そう言われ、私たちは二人でスペイン風オムレツを作った。 二人で料理をするのは楽しかった。 出来上がったものをトーストで挟んで食べている時、 私と向き合って食事をしているゆいか先輩を見ていると、 不思議な感覚に襲われた。 何かが起こる。 私がここに来てからの、彼女のどこか恍惚とした眼差しや、 一つ一つの言葉、そして纏う空気が、何かが起こることを予感させた。 食事を終えた私たちは、一緒にお風呂に入った。 私はゆいか先輩の体を、裸を何度も見たことがある。 合宿の入浴でいつも一緒だったからだ。 でも、昨日見たそれは、今まで見たものとは少し違った。 二人きりで改めて見る彼女の体は、大人の女性のそれで、 何だかとても艶やかで、そして神聖なもののように感じた。 そうか。 私たちが初めて出会った時、二人ともまだ子どもだった。 でも、今はそうではないのだ。 この数年で、私たちは大人に随分近くなった。 彼女が私の背中を流し、私もまたそうした。 追いかけ続けていた先輩の背中は、とても綺麗だった。 「布団、同じのでいいかな。結構大きいし」 時計の針は11時を指していた。 お風呂から上がって二人で話をしているうち、そんな時間になっていたのだ。 彼女の提案を断る理由はなく、私は快諾した。 ゆいか先輩と一緒の布団というのは嬉しい。 電気を消して、私たちは同じ布団の中に潜り込んだ。 真っ暗になった部屋の中で、ゆいか先輩の声が聞こえる。 「望月、最後の最後まで私を追いかけてくれて、  そして、追い抜いてくれてありがとうね」 「ゆいか先輩」 こういうとき、どんな言葉を発するのが正解なのだろうか。 私は分からず、名前だけを呼んで口をつぐんだ。 仰向けになって天井を見上げていた彼女が、私の方へ向き直った。 「なあに?」 「いえ、何でもありません」 電気を消した部屋に目が慣れて来たのか、同じ布団の中にいる女性の表情が見える。 笑顔だ。目には優しさと、何かしらの情念を宿している。 「望月」 「はい」 「望月は好きな人とかいるの?」 「え」 突拍子もない質問だったが、私の顔を見つめるゆいか先輩の眼は真剣だ。 答えを濁すことが許される空気ではない。 いません。と答えると、彼女は笑顔のまま少し身体を起こした。 静寂の中、布団とパジャマが擦れる音が響いて、 彼女は私の上に覆いかぶさるような体制になった。 髪の毛からは甘い香りがする。 「望月、キスしよっか」 鼻と鼻が触れてしまいそうな距離でそう言われ、心臓がドクンと跳ねた。 ああ、やっぱり。 ずっと感じていた予感はこれだったのだ。 彼女は、私と………。 私は何も言わなかった。 それは、受け入れるという意思の表れだった。 彼女もそれを察したのか、顔を近づけてくる。 唇と唇が触れるか触れないか、そこまで来たときのことだった。 体が、彼女を拒否した。 私の手が彼女の肩を押し、重なりかけていた体を突き放した。 私たちの間に空間が出来て、それは、大きな溝のようだった。 ゆいか先輩は、お気に入りのおもちゃを急に取り上げられた子どものような、 驚きと悲しみが入り混じった表情をしている。 その表情を見て、反射的に言葉が出てきた。 「ごめんなさい……」 私の意志は、彼女を受け入れることを選択した。 だが、体はそれと真逆の選択をした。 意志よりも体の選択が優先されたことが悲しくて、悔しくて、 目の奥からこみ上げてくるものを感じる。 私の視線の先にいる女性の眼にも、涙が貯まっていた。 「ううん、私こそごめんね」 彼女はそう言って、私に顔が見えないように横になった。 「ゆいか先輩、本当にごめんなさい」 「謝らないで。望月は悪くないから」 もう寝よう、と言われ。私は目をつぶった。 しばらくして、ゆいか先輩のすすり泣く声が聞こえた。 私にバレないように、こらえながら泣いているのが分かる。 私は、苦しかった。 翌朝、つまり今日の朝、彼女はいつもの調子だった。 昨晩何もなかったかのようにふるまっていて、それはそれで何だか申し訳なかった。 その申し訳なさに耐えられず、私は朝食を食べて、早々に帰宅した。 「世界が私を否定しているような気分になることがある」 ゆいか先輩のかつての言葉が、私の頭の中で何度も繰り返される。 私は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。 そればかり考えている。 何故、意志の力で体を抑え込めなかったのだろうか。 11月21日(月) 「この前の大会の後さ~、ありすっちも遠藤先輩もいなかったから、  主役不在って感じでマジ寂しかったよ~」 購買にパンを買いに行った時、藤堂桐子がそう言ってきた。 パンを買ったが食欲がなく、食べられなかった。 11月24日(木) 信じたくないようなことが発覚した日だった。 今日は九重高校陸上部の新人事の発表日で、 三年生は新部長の発表をし、挨拶をした後、完全に引退となる。 陸上部全員が出席していた。 その中にはもちろん、ゆいか先輩もいた。 新部長に任命された藤堂桐子の挨拶が終わり、三年生が撤収するときに、 笠原先輩とゆいか先輩の会話が聞こえた。 「ゆいかちゃん、もうちょっとここにいてもいんだよ?  海外行ったら来れなくなるんだし」 は? 海外? 何だ、それ。 「うん、大丈夫」 「だったらいいんだけど~」 そう話しながら、グラウンドを後にする二人。 一、二年生の部員は、全員このまま部活を行うことになっていて、 みんなその準備をしている。 私はそれどころではなかった。 ちょっと外すわ、と藤堂桐子に伝え、 私はゆいか先輩と笠原先輩を追いかけた。 グラウンドと校舎の間で二人に追いつき、一人の先輩の名前を呼ぶ。 「ゆいか先輩」 名前を呼ばれた相手は、少しだけバツが悪そうな顔でこちらを見た。 「ゆいか先輩、海外に行くって本当ですか?」 「私たちの会話、聞いてたんだね」 「はい、聞こえました」 笠原先輩が、言ってはいけないことを言ってしまったかのように、 自分の口を手で覆った。 ゆいか先輩は少し沈黙した後、私の質問に答えた。 「うん、本当だよ」 「どうしてですか」 「ん、前から決めてた」 私たちの会話は徐々に緊張感をはらんだものになっていく。 気まずそうに沈黙していた笠原先輩に、ゆいか先輩は、 先に帰ってて。と声をかけ、彼女はそれに従った。 「海外に行ったら、もう会えないじゃないですか」 「そうなるね」 「私、ゆいか先輩に会えなくなるのは嫌です」 私は、勝手な女だ。 ゆいか先輩の思いを踏みにじっておきながら、こんなことを言うのだから。 でも、言わずにはいられなかった。 「もう決めたことだから」 返って来る言葉は無機質で、私の気持ちを遮断しようとする。 彼女との間に、透明な壁があるように感じた。 手を伸ばしても、彼女の目前で壁に阻まれる。 「どうして? どうしてさっきからそんな態度なんですか?  会えなくなるの、ゆいか先輩は寂しくないんですか」 「だから、もう決めたことなんだって」 すれ違う言葉。 これは会話ではない。 悲しくなった。 ゆいか先輩は、私と話そうとしていない。 「私のせいですか……?」 何故こんなことを口走ったのか、今でも分からない。 私の気持ちが、そのまま言葉として顕現していた。 「私がこの前、土曜日の夜、あんなことしたから……。  もしもあの時、私がゆいか先輩を受け止めていたら、  こんなことにはならなかったんですか……?」 それを聞いて、彼女は困った表情でうつむいた。 目を閉じ、何かを考えているようにも見える。 少しして、彼女は閉じていた瞼を上げ、顔も上げ、 背筋をただし、優しい表情でこう言った。 「望月、私、夢を見ていたの。  長い間、すごく素敵な夢を見てた。  でもね、そこから覚めちゃったの。  つまりそういうこと」 優しい口調で語られる言葉を聞いていくうちに、 絶望という名前の感情が胸の中に広がっていく。 私は足掻いた。醜い足掻き方だった。 「そういうことって何ですか!  意味が分からないです!  ひどい! ゆいか先輩ひどいですよ!  私のこと嫌いなんですか!?  質問から逃げないでくださいよ!  質問からも私からも」 「望月」 ゆいか先輩は少しだけ険しい顔をして、私の名前を呼ぶ。 それから、悲しさを押し殺したような、歪な笑顔を見せた。 「それ以上言わないで」 今にも消え入りそうなか細い声でそう言われ、 私は、黙ることしかできなくなった。 風が吹いて、木々がざわめく。 「バイバイ」 振り返り、彼女は私のもとから去って行った。 11月26日(土) 眠れない。 12月4日(日) 少しでいい。 少しだけでいいから、ゆいか先輩と話がしたい。 12月5日(月) ゆいか先輩にメッセージを送った。 今までは、すぐに既読がついて返信が来ていたのに、 今日は既読すらつかない。 12月7日(水) まだ既読がつかない。 これが何を意味するかは、大体わかる。 12月19日(月) ひたすら走っている。 誰もが驚くようなタイムを出せたら、 ゆいか先輩が何かのきっかけでそれを知って、 私を褒めてくれるかもしれない。 会話ができるかもしれない。 希望的観測であることは分かっている。 現実的ではないことも分かっている。 でも、私にはそうすることしか出来ない。 12月24日(土) クリスマスイブ。 今日も走った。 それだけだった。 12月31日(土) 一年が終わる。 想像もつかないようなことが起こった一年だった。 あの夜のことが今もフラッシュバックする。 あの時、私の体が意志に従っていれば。 あの時、彼女を受け入れていれば。 後悔は何の役にも立たない。 それが分かっていても、この感情は湧き上がってくる。 今は、ゆいか先輩と話がしたい。 そして……。