アラビアンナイト2 蒸気義足のシンドバードと白鯨の物語 〇第六夜 <左 普通> さて、今回のお話は、あるスコットランド人の青年から始まります。 彼の名を、ハーマン、と呼びましょうか。 スコットランドは、地図で言いますとイギリスの北の部分です。 エディンバラのお城ですとか、今はネス湖というのも有名なようですね。 それと、料理のハギスですとか。 あら、マスター。ハギスはご存じありませんか? そうですか、では折を見て夕食にご用意いたしましょうか? とても、旨味の強い肉料理だそうですよ。ふふっ。 マスター、お肉、お好きですものね。 それでは、マスターの分を注文しておきますね。 えっ? わたくしは、そのー、興味は、あるのですが、おそらく戒律に反するとか、そんな理由で、「残念ながら」食べられないものでして……。 <左 近い ささやき> んっ。 (けなげな演技)マスターぁ。わたくしは、マスターが召し上がるのを見るだけで「幸せ」でございます。ふふっ。 (ハギス:メシマズイギリス料理の頂点に君臨する羊の臓物料理。数々のメシマズ伝説が語られるが、実際の所、内蔵は好き嫌いが激しいのと、作り手の腕によるところが大きいらしい) <左 普通> さて、少々話が脱線してしまいましたが、このハーマンという青年、スコットランドの片田舎で漁師の三男坊として生まれたものの、もっと広い世界を知りたいという若者らしい思いを人一倍持っておりました。 そのようなわけで、大陸に渡ってイタリア半島の長靴の先、地中海に浮かぶシチリア島までやって来た次第でございます。 シチリア島は、地中海の要所であり、小麦やオリーブ、ワインで知られる肥沃な島でございました。 その重要性故に、古来、さまざまな国からの侵略や支配を受けてきたものです。 そんな歴史の舞台となった島ではございますが、ハーマンにとって、シチリア島は単なる中継地点に過ぎません。 かつてローマ帝国の胃袋を満たした穀倉地帯は、今や別の地域への輸出で栄えておりました。 ハーマンは、次なる地を目指して、シチリア島の東に位置するカターニアの港に向かいます。 そこで荷物を積みこむ商船の仕事を探します。 幸いにも漁師の息子という事もあり、即戦力として喜ばれました。 名産の小麦や米を満載すると、船は東へと向かいます。 アテネの島々が浮かぶ美しきエーゲ海を越え、狭隘【きょうあい】なダーダネルス海峡を越え、サファイアの海と称される穏やかなマルマラ海を進むと行き先が見えてまいりました。 ヨーロッパとアジアが接する場所。 かつては、コンスタンティヌス1世がキリスト教を初めて公認したローマ帝国の首都コンスタンティノープルと呼ばれ。 そして、今はオスマントルコ帝国が統べるイスタンブルとなった都でございます。 イスタンブルには、ローマ時代の水道橋や戦車競技が行われたヒッポドロームのオベリスクが立ち並び。 世界最大のキリスト教会をモスクに改装した、華麗かつ繊細なビザンティンの面影を残すアヤソフィア大聖堂。 青を基調として配した緻密なモザイクタイルを、ステンドグラスから注ぐ光が鮮やかに映し出す。世界一美しいとたたえられるスルタンアフメト・モスク。 極力、柱を廃したドームの内側が、立つ者にまさしく宇宙の広がりを感じさせるスレイマニエ・モスクはイスラーム建築の最高傑作でございます。 半島の先端に位置する、皇帝の住まう、イェニ・サライは複雑に入り組んだハーレムを抱え、帝国の栄華のほどを示しております。 北に切り込む金角湾には、241メートルという長さにも関わらず、橋脚を必要としない野心的な設計が人々を驚かす、ダ・ヴィンチの橋が架かり。 東のボスポラス海峡には、どっしりとしたミケランジェロの石橋がヨーロッパとアジアを結んでおります。 そんな幾重にも古今の歴史と文化が綾をなす、「歓喜の門」、「崇高な戸」、「荘厳な朝廷」、「王座の中心」、「幸福の宮」と種々にたたえられる都でございます。 博物館の中央を飾るウルバン砲は、大人がすっぽりと収まってしまうほどの砲身から、かつてヨーロッパに向けて轟かせた砲声の大きさで、「ムスリムがコンスタンティノープルを奪取した時にイスラームは最終的な勝利に近づく」というムハンマドの言葉を吠えるがごとき威容を誇っております。 そうした歴史の遺産に心を震わされたものの、このハーマンという青年、古都の観光に来たわけではございません。 ほら、今しがたも歴史ある街並みを蒸気自動車、ガーニーがさっそうと走り抜けて行きました。 そう、今やオスマントルコと言えば、やはり蒸気帝国でございます。 そのようなわけで、イスタンブルで荷物を積みかえ、次は蒸気機関車でアラビアに渡ったのでございます。 ああ、そう言えば時代設定の話をしておりませんでしたね。 何世紀なのか話す前に1つ質問ですが、マスターは蒸気機関を発明したのがどなたかご存じでしょうか? はい、ジェームズ・ワットですね。1769年の発明でございます。 ですが、それは実用的な蒸気機関「は」、のお話です。 実は、ワットが開発するよりも前に、すでに蒸気機関は存在しました。 トーマス・ニューコメンという方が蒸気の力でシリンダーを往復させる装置を開発し、鉱山などで実際に使われておりました。 ワットは、ニューコメンの蒸気機関の修理を依頼されたのをきっかけに、改良したに過ぎないのです。 とは申しても、ワットの発明は重要でございます。 ニューコメンの蒸気機関は効率が悪かったですし、往復運動よりも回転運動の方が何かにつけて便利でございます。 さておきここで重要なのは、お湯を沸かして作った蒸気の力を利用しようという試みは、つまりは、熱エネルギーを運動エネルギーに変換しようという試みは、ワット以前に既にあったという事でございます。 それをたどると最も古いのは、ヘロンと言う人物でございます。 なんと、1世紀のギリシアの方です。そんなに古くから蒸気の力を使おうという発想があったのは驚きですね。 ヘロンの蒸気機関といいますのは、鍋から蒸気が球に送られて、その蒸気が球に取り付けられたパイプから勢いよく、 <左 近い> (耳吹き)ふーーーっ。ふふっ。 <左 普通> と吹き出して、その勢いで球をクルクルと回し、クルクルと回って……そのクルクル回るさまを楽しむ……とまあ、言ってしまえば、ただのオモチャでございました。 とはいえ、蒸気の力を使おうという着眼点は、十分評価に値するものでございました。 さて、ギリシアやローマの学問を受け継いだのがアラビアでございます。 アラビアでは、「学者のインクは殉教者の血よりも尊い」とされ、学問が重要視されておりました。 そのアラビアで、蒸気機関を完成させた男がいたのです。 その男の名は、タキ・アルディン。オスマントルコが誇る碩学でございます。 タキ・アルディンが作ったのは、いわゆる循環式蒸気タービンという仕組みでございました。 はい、調べたところ、今も発電所や原子力空母という物などで使われているようですね。 (小声)まあ、タキ・アルディンの作った装置は、羊の丸焼きを作る余興に使われただけではありますが……。 (ハッキリした声で)それはさておき、西洋でこの循環式蒸気タービンという仕組みが発明されたのは、1884年の事。 チャールズ・アルジャーノン・パーソンズという方の発明です。 対して、タキ・アルディンの発明は1551年でございます。 300年以上も前に、同じ原理の装置を開発していたのです。 どうでしょうか? アラビアの科学の先進性をご理解いただけたでしょうか? 今回の物語は、タキ・アルディンの蒸気機関が、イギリスよりも200年早く蒸気革命を起こした話。 時は17世紀、蒸気の力による栄華を語る、アラビアン・スチームパンクでございます。ふふっ。 さて、イスタンブルを出発した蒸気機関車は、ミケランジェロの石橋を通ってボスポラス海峡を渡りアジアへ、アナトリア半島の高原地帯を進みます。 春には、野生のチューリップが凛と高貴なたたずまいを見せる美しい高原でございます。 現在はオランダの印象が強いチューリップではありますが、原産地はここアナトリア半島でして、アラビア語で「赤い花」を意味するラーレと呼ばれ、国民から愛されておりました。 ラーレという名前は、アッラーのアナグラムでもございます。 また、ラーレを逆から読めばオスマントルコの国旗に描かれる、三日月、ヒラールとなります。 そのような事からも、チューリップが、オスマントルコにおいていかに特別な花かをご理解いただけるでしょうか? ちょうど日本における桜のような花なのでございます。 そのように愛される花ですので、アラベスク文様【もんよう】にもよくチューリップのモチーフが使われます。 ですから、時代の先端をゆくこの蒸気機関車も、チューリップの文様で装飾されておりました。 蒸気機関車はアナトリア半島を抜けると、北に雄大なアララト山を望みつつ、ユーフラテス川の流れに沿ってアラビア半島の付け根を下って行きます。 紗のカーテンがやさしい影を作る車窓からは、南には広大な砂漠が、そして北には工場群が見えてまいります。 肥沃な三日月地帯と呼ばれ、人類の揺籃期を支えた地域は、今や世界をけん引する大工業地帯へと発展したのでございます。 アインタブ、ハラブ、アル・タウラ、アル・ラッカー、デリゾールとそれぞれの駅に停車するごとに、シチリアの農作物を下ろしていきます。 工場群は、ユーフラテスを下るにつれて更に高く、高く発展を見せます。 そして、それは中流域のバグダードで最高潮に達します。 名だたる碩学が集う、バグダードにある知恵の館、バイト・アル=ヒクマ。 そのお膝元に立ち並ぶ工場群は、アラビアの科学力と権威の象徴でございます。 巨大なだけでなく、都市の理念をもって整然と建設された工場群は、調和と優美さも備えておりました。 その天を摩する煙突からは、(おどろおどろしく)産業革命期のロンドンと同様にどす黒い排煙が、それはそれはモクモクと吐き出され……(ニッコリと)てはおりませんでした。 立ち上るのは、砂漠からの風にすぐに吹き消える程度の白い煙くらいのものです。 雲1つない澄んだ青空からは、アラビアの灼熱の太陽が照りつけておりました。 はい、イギリスで用いられた石炭のような環境問題を引き起こす燃料ではなく、「とっても」クリーンな燃料を見つけていたのでございます。ふふっ。 ギラギラと強い日差しが降り注ぐ中、北方に位置する冷涼なスコットランド出身のハーマンはすっかり暑さにのびておりました。 貨物車両の端で、小麦の袋にもたれかかり、ぐったりと座り込んでいます。 喉がカラカラに乾くので、車内販売の売り子が隣の客車を通る度、ふらりと立ち上がっては飲み物を注文します。 砂漠を渡る民が飲む、刻んだマンゴーとライムを入れた水でございます。 それを買って、ガブガブと飲むのですが、路銀が減るばかりでいっこうに乾きが和らぐ気がしません。 そんな異邦人の様子を、近くに座っていたアラブの労働者が立派な髭から白い歯を覗かせて笑いました。 「ははっ、アラビアは初めてかな? そんなに一度に飲んではダメだ。喉を湿らせるようにちびりちびりと飲むんだ」 そう言って、軽く水筒を傾けてみせます。 「シュクラン」とアラビア語で礼を言って、それまでの10倍の時間をかけて飲み終えると、元気過ぎるアラビアの太陽もようやく傾いてまいりました。 すずしげな風が紗のカーテンを揺らす窓枠にもたれると、夕陽が砂漠をオレンジに染め、地平線に溶けるように沈んでいく雄大な光景に目を見張ります。 砂丘の砂が風に吹かれて、まるで海原の波頭【なみがしら】が崩れるように、夕陽が差す中でキラキラと輝き。 蒸気タービンの低い唸りも、波の音のように聞こえてまいります。 夕陽が沈むにつれて、砂漠は赤みを増していき、やがて幻想的な紫へ、宵闇の濃紺へと色を移し、そして月明かりの瑠璃色に浮かび上がります。 ハーマンは、その様子を飽きもせずウットリと眺めるのでした。 そうした蒸気機関車での旅も終点を迎えます。 ティグリスとユーフラテス、2つの大河の終着点。 コバルトブルーのペルシャ湾を望む港町でございます。 はい、こここそがハーマンの目指していた所でした。 そこで、最後の食糧を下ろし、空になった貨物車両に大きな樽を百余りも積み込んでいきます。 樽を傾けて2人がかりで転がすと、樽の中で液体がタプタプと音を立てます。 蒸気機関車は、樽を満載すると、ハーマンを残し来た道を折り返して行きました。 港湾には数隻の船が停泊し、ある船では航海に出るために物資を積み、またある船ではウインチで樽を下ろしております。 それぞれの船は、舷側に3,4隻ほどの小さなボートを吊るしております。 はい、それらは捕鯨ボート。鯨に近づいて銛を撃つためのボートです。 そう、この港町は世界最大の捕鯨基地なのでございます。 宿の看板には、宿名が潮を吹く鯨を模したカリグラフィーで描【えが】かれ、食堂の入口には、ハーマンの背丈の倍以上もあるマッコウ鯨の下あごの骨が飾られております。 行き交う人の髪や肌、瞳の色もさまざまです。 もっとも見かけるのは、やはり地元の浅黒いアラブ系、次いでトルコ系ですが、ギリシア人を中心とした白人や、エチオピア系の黒人、中には中国や日本、ハワイやフィジーといった国の人々までおります。 みな、豊かさを求めてやって来た人々です。 活気に満ちた往来の中、ふと真新しい船の前に立つ黒い三角帽子がハーマンの目に入りました。 それは、西洋における船長や航海士といった高級船員の証です。 近寄って顔を見れば西洋人の顔立ちで、イングランドなまりのアラビア語を話しております。 アラビアでは、よそ者の白人が船長のような高い地位につけるのかと、ハーマンは驚きました。 そうです、イスラームの統治は寛大でございます。 異教徒でも人頭税【じんとうぜい】、ジズヤさえ納めれば、信教の自由と安全が保障されておりました。 つけない役職も行政の高官とイスラームの聖職者くらいのもので、実力さえあればのし上がる事ができたのです。 ですから、富や自由を求めてさまざまな人種が集まるのです。 異郷の地にあって、同じブリテン島出身の船長とは渡りに船、よしみで厚遇してもらえるかもしれません。 ハーマンは、そんな下心もあって荷物袋の底からタータンチェックの上着を引っ張り出して、しっかりと首元までボタンをはめました。 そして、さも偶然見つけたとばかりに声をかけました。もちろん英語で、でございます。 その男は懐かしい英語の響きに振り返ると……プッと噴き出しました。ふふっ。 「このクソ暑いのに、毛織のタータンを着るなんて、スコットランド人は羊か何かか?」と大笑いします。 その反応に、ハーマンは背を丸めてちぢこまり、いそいそと上着を脱ぎました。 毛を刈り取られた羊のようにシュンとなります、恥ずかしくて相手の顔も見られません。 ですが、相手の方から「乗る船を探しているなら、うちの船に来ないか」と提案がありました。 どうやら、タータンには打ち解ける効果はあったようです。 ハーマンの予定とは、「少々」異なったかもしれませんが。ふふっ。 捕鯨船というのは、半数ほどの古株がいて、残りの半分はこうして出航する前に新人を雇うものなのです。 スターバックと名乗ったその男は、「捕鯨船は初めてか。なら130番配当になるが、それで構わないな?」と言いました。 130番配当というのは、船全体の利益の130分の1を報酬としてもらえるという意味です。 はい、ヒラ船員の報酬でございます。 ガクリと肩を落とすハーマンを見て、スターバックは笑いました。 「船の規律というやつがある、同郷のよしみだからとひいきにしては他の船員が不満に思うだろう。しっかり働いてもらうから覚悟しておけよ」 確かにスターバックの言う通りでございます。 船というのは、海に浮かぶ一種の国家なのです。 海で判断を誤れば、人はたちまち死んでしまいます。 ですから、船員がちゃんと船長の判断に従うように上手くまとめあげるのも船長の技量でございます。 一度捕鯨に出れば、船倉がいっぱいになるまで、2年も3年も同じ船の上で顔を突き合わせるのです。 そんなに長い間一緒に居れば、小さな不和の種もいさかいに発展してしまいます。 その配当で納得するしかないでしょう。 スターバックは「だが、その代わり捕鯨というものを教えてやろう。どうだ、ちゃんと仕事を覚えれば次の配当が良くなるぞ」と付け加えます。 このスターバック、異郷のアラビアで船長になるだけあって、なかなか人の使い方というのを心得ております。 「早速1つ、やってみるか? ほら、花形の仕事だ。試しにそれを投げてみろ」 そう言って、そばの樽に立てかけてあった銛を指差して、次に海に浮かんだ桶を差します。 銛撃ちの試験用に用意された品でございます。 ほほう、なかなか面白そうではありませんか。 ハーマンは銛を持ち上げると、ふらりとよろめきました。 この銛の重い事、ゆうに5キロはあります。 スコットランドの素潜り漁で使われていた銛とは大違いです。 長さも身長の2倍以上あって、振りかぶるとたたらを踏んでしまいそうになるのをぐっと踏ん張ってこらえます。 そして、桶めがけてエイッと思いっきり投げました。 「ああっ、惜しい」 銛が桶をわずかにそれて海に落ちるのを見て、ハーマンは悔しがります。 「ははっ、初めてにしては悪く無いぞ。どうだ、もう1度投げてみるか?」 ハーマンは元気よく「はいっ!」と答えて、銛につながったロープをたぐって回収します。 スターバックが快活に笑って、「実際は、不安定なボートの上から投げるんだ、もっと足腰を柔らかく使って銛の重さを支える事に気を付けてみろ」とアドバイスを出してくれました。 さあ、もう1度と、銛を構えたその時です。 <右 近い> 「違う。空。狙う。俺に。貸す」 <左 普通> 不意に背後から片言のアラビア語で声をかけられて、振り返ると心臓が飛び出るかと思いました。 そこには、浅黒い肌、髪は剃り上げており、頭の先から足の先まで白い刺青で紋様【もんよう】を入れた大男が立っておりました。 左手には、ハーマンが投げたのよりも二回りは大きな銛。 何より驚いた事には、腰から人間の干し首をぶら下げているではありませんか。 その大男は、驚きのあまり硬直したハーマンの手からひょいと銛を取り上げると、重さを確かめるように上下に振ってみせます。 「軽い。銛だ」 そう言って、無造作にブンッと投げました。 空に向かって放たれた銛は緩い放物線を描き、穂先を下にして、吸い込まれるように桶に突き立ちました。 隣から、ヒューっとスターバックの口笛が聞こえました。 「あっ」 それを見て、ハーマンはようやく気付きました。 的がなぜ板切れではなく、桶なのかに。 本当に上手い銛撃ちは、銛が上から突き刺さるように投げるのです、ちょうど桶の側【がわ】を避ける軌道で。 「どうだ。見たか」 大男は、右手でハーマンの肩をがっしりとつかみ、自信たっぷりに左手の銛をかかげて見せました。 大きく開けた口からは、真っ白な歯がのぞいております。 「その銛は……」 ハーマンが、大男が掲げる銛を指差します。 その銛には柄にも、穂先にも大男の刺青と同様の紋様がびっしりと刻まれておりました。 「これ。投げる。鯨だけ。50と7。倒した」 そう言って、腰から下げていた斧をぐいっとハーマンの眼前に突きつけます。 柄にはたくさんの線が刻まれておりました。おそらくは57本あるのでしょう。 大男は、その斧の先端に何かを詰めて火を付けると、柄の部分に口を付け、うまそうに煙を吐きました。 どうやらパイプになっているようです。 大男は、そのままパイプの吸い口をハーマンに差し出します。 ハーマンは、固まっておりましたが、大男が微動だにせずニコニコとするものですから覚悟を決めて口を付け、スーッと吸いました。 「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ!」 そして、むせました。ふふっ。 その様子に、スターバックも加わって2人して「ハハハ」と笑います。 「タバコは初めてか? 勢いよく吸うもんじゃない、スープをすするようにゆっくり吸うんだ。 それと、初めてなら煙を肺に入れないほうがいい、口の中で香りを味わうようにするんだ」 スターバックは大男に向き直ると「俺ももらえるか?」と尋ねます。 大男がうなづくのを見て、ハーマンの手からパイプを受け取り、 <左 近い> (長く細く息を吸う感じで)スゥーーーーーー。 (可能ならマイクに軽く長く息を吹きかけるように)ハァーーーーーー。 <左 普通> と吸いました。 「うまい。ここらでは水タバコばかりだが、やはり俺はこっちの方が好みだ。いい葉だ、ココナッツのような甘みがある。 それに持ち主の腕もいい、ここまで上手い銛撃ちはそうはお目にかかれない。 うちの船に来ないか、37番配当出そう、どうだ?」 そう言って、パイプを返します。 先程ハーマンに提示したのは、130番配当です。 ハーマンは驚きました。 なんと、この蛮人の大男は自分の3倍以上も配当があるというのです。 銛撃ちの腕は、鯨を仕留められるか否かに直結しますから当然と言えば、当然。 捕鯨船は、実力社会という事を早速、思い知らされた次第です。 「分かった。それでいい。俺。クィークェグ。よろしく。船長」 大男は、パイプを受け取りニコニコと口にくわえると、スターバックに右手を差し出します。 「スターバックだ。お前の腕には期待している」 スターバックも右手を出して握手を交わします。 そして、気まずそうに続けました。 「あー、それと、だな。俺は、船長じゃあ、ない。一等航海士だ」 一等航海士というのは、船長に次ぐ地位です。 「船長は、あそこだ」 そう言って、スターバックはやや困ったように船の前方に目をやりました。 そこからは、カーン、カーンという音が鳴り続けております。 「あそこで銛を打っている。どうしても自分で打ちたいそうでな、鍛冶師の所にこもりっきりだ。あれにご執心でな、雇用については俺に一任されている」 カーン、カーンという音が響きます、折り返し、折り返し、執念深く折り返し、鉄を鍛える音が。 「変わり者だが、腕はいい。名前は……」 そして、スターバックは告げたのです。その名前を。 <左 近い ささやき> ふふっ。「名前は、シンドバードだ」と。 おもしろくなってきたところではありますが、これ以上続けますと区切りが悪くなってしまいます。 今夜のお話は、ここまでに致しましょうか。 明日のお話は、もっと、面白いですわよ。ふふっ。 〇第七夜 <左 普通> さて、ハーマンが乗る事になった船には、ピルム号と書かれておりました。 ピルム、ピルム……はて、なんでしょうか? どこかで聞いた事がある気がする名前です。 こう、喉まで出かかっているのですが、どうにも思い出せません。 そう考え事をしながら船に荷物を積み込んでいると、急にガクリとつんのめりました。 一体どうしたのか、と確認すると、運んでいたコーヒー豆を入れた麻袋を何かに引っかけてしまったようです。 船の甲板【かんぱん】をぐるりと囲む欄干【らんかん】の上には白い円錐形の飾りが取り付けられており、尖ったその先端が引っかかっているのです。 麻袋を破かないようにそっと外したところで、ふと興味をそそられました。 触れてみると堅くてツルツルしていて、20センチくらいの大きさなのですが、不揃いな形をしています。 これは、いったいなんでしょうか? <右 近い> 「それはマッコウクジラの歯だ」 <左 普通> 「ス、スターバックさんッ!?」 急に背後から声をかけられ、ハーマンは飛びあがりました。 「新入りがこんな所で油を売ってるんじゃない。さっさと荷物を置いてこいッ!」 「イエッサーッ!」 ハーマンは背筋を伸ばして答えます。 「なに、イエッサーだと? 認識が足りていないようだな、ここはアラビアだぞ。ここではハサナンと言えッ!」 「ハサナンッ!」 ハーマンは、右手を前方にかかげるアラビア式の敬礼をしてみせました。 「よし。仕事はまだまだあるぞ、風が出る前に済ませるんだ。急げッ!」 「ハサナンッ!」 スターバックの声を背中に受けて、ハーマンは駆け出します。 一番上の主甲板【しゅかんぱん】のハッチから階段を下りて、第二甲板へ、もう1つ階段を下りて、最下甲板【さいかかんぱん】の後部船倉の樽に麻袋を入れて蓋をします。 後部船倉には、そうしてさまざまな食糧が収められておりました。 船倉に入って、まず感じるのがオスマン料理に欠かせないケーパーを漬けた酢の匂い。 次いで、アラビアらしくスパイスの香り。 残念ながらコショウやナツメグといった高級品はございませんが、エキゾチックな香りのクミン。 スパイシーな中に甘みをただよわせるクローブ。 ライムのすがすがしい香りが、乾燥される事で、スーっと尾を引く甘みに転じたブラックライム。 アラビアではコーヒーに欠かせない、さわやかなカルダモン。 後味をよくしてくれる、若い緑の清涼感と甘みが特徴のフェンネルなどが揃っております。 他にも、アッラーがアーダムと同じ物質から食料として作られたというナツメヤシの実、デーツ。 干しイチジクや干しブドウ、干した人参、保存のきく玉ねぎなども、船旅で貴重なビタミン元です。 クルミや、アーモンド、ピスタチオといったアラビアを原産とするナッツも、深みのある香ばしい香りを添えております。 嗜好品では、コーヒーの他にも、当時は吸えば死刑とされたタバコも公然と持ち込まれ、酒に代わって船員に気晴らしを提供します。 それに貴重品の砂糖まで。 もちろん、塩漬け肉や、堅パン【かたぱん】、小麦に米、レンズ豆にヒヨコ豆、ゴマなどは大量に積みこんでおります。 そうしていると、上の第二甲板の操舵室から、スターバックが主甲板の船員に向かって声を上げるのが聞こえてきました。 「時刻合わせ。6時ちょうどで合わせる。10秒前から読み上げろ」 主甲板では、港の灯台に取り付けられた、マッカ標準時を告げる大時計の時刻を読み上げる声が返ってきます。 「ハサナンッ! 10秒前、9、8、7、6」 とカウントダウンが進み、そしてゼロの声に合わせて、スターバックはバネ仕掛けの振り子から手を放します。 「時刻合わせ、よしッ!」 マッカ標準時のリズムで、カチ、カチと振り子が歯車を回し、秒針が時を刻みだしました。 秒針付きの時計を開発したのも、蒸気機関を開発したのと同じタキ・アルディンです。 それにアラーム機能も付いた優れものでございます。 彼の発明によって、より正確な航海が可能になったのです。 スターバックは、操舵室の壁に据え付けられた伝声管の蓋を開きます。 「機関室、ボイラーに火を入れろ」 <左 近い ささやき> 耳を澄ますと、足元から聞こえてきます。 初めは、シュッと黄燐【おうりん】マッチをこする音。 ぼわっと火が広がり。 そして、ゴウゴウと炎が身をよじらせ。 続いて、ボコボコと湯が沸き立ち。 やがて、ぐぉぉぉ〜んとタービンが低くうなり。 カラカラ、カタカタ、ガラガラと、無数の歯車が噛みあう音がうねりとなって。 <左 普通> 「出航するぞぉッ!」 スターバックが、レバーを操作すると、ガチリッと音を立てて巻き上げ機が動き出します。 蒸気の力がロープを巻き上げ、数百キロもある錨が海中から姿を現します。 「錨巻き上げ、完了ッ!」 甲板からの声に、スターバックが再びレバーを操作しました。 「出航ッ!」 蒸気タービンの力がスクリューに伝わり、力強く水をかいて、船が朝凪のペルシャ湾を進みだしました。 ウォーッと歓声がわき上がります、初めて乗る蒸気船の興奮、高鳴るエンジン音にハーマンもウォーッと唱和しました。 陸から十分に離れると、スターバックが本日最後の指示を出します。 「帆走に切り替える。各マスト、凪の内に横帆【おうはん】を下ろせ。気を抜くなよ、それが終われば休憩だッ!」 「ハサナンッ!」 返事と共に、船員たちが縄梯子に取り付き、クモのようにマストを登っていきます。 この作業は、商船に乗っていたハーマンには手慣れたもの。 スルスルと登って、あっという間に3本あるマストの一番前、フォアマストの一番上の帆、フォア・ロイヤルスルにたどり着きました。 右端から順に、帆をマストに結びつけるロープをほどいていきます。 手際よく開き、続いて2番目の帆、フォア・トガンスルに取り掛かります。 それが終われば、フォア・トプスル、フォアスルと次々と広げていくのです。 吹き始めた砂漠からの暑い風に、帆が頭上でバサリとひるがえります。 甲板からロープでこの帆を引っぱって、ピンと張ってやるのです。 下からは、甲板でスターバックが、そのロープを引く船員に指示を飛ばすのが聞こえてきます。 <左 遠い> 「おい、ミズン・トプスル。あーっ、これでは分からんか。後方マストの中段。そう、お前だ。そのロープじゃあない。1つ右のロープだッ!」 <左 普通> 帆船には、30枚近い帆があり、その帆やマストを支えるロープの数は優に100を超えます。 まるで、複雑なあやとりの様相です。 入り組んだロープを見ても、そのロープがどんな役割なのか素人には見当もつきません。 ですから、スターバックのように知識がある者でないと、まともに指示も出せないのです。 昨日の話で申しましたが、捕鯨船の船員というのは半分は初めて航海に出る人間です。 つまり、こういった帆を張る作業にあたる人間のほとんどが素人という事でございます。 このように言えば、航海士の責任の重さや重要性の一端をご理解いただけるでしょうか? 複雑な船の細部にまで指示を出す必要もあって、航海士は一等、二等、三等と3人乗っております。 もちろん、これは航海士だけの仕事ではありません。 通常ならば、船の責任者である船長が先頭に立って行う仕事でございます。 ですが、この期に及んでもシンドバード船長は船長室にこもったまま姿を現しません。 スターバックが並々ならぬ有能さですからどうにかなっているものの、シンドバード船長の神経はどうなっているのでしょうか? ハーマンが、マストから降りようと下を見ると、先程麻袋を引っかけた鯨の歯の飾りが目に入りました。 甲板を取り囲む欄干全体に配置されており、ここから見ると、甲板の船員たちはまるで鯨の口の中に立っているかのようです。 首を振って不吉な考えを払い甲板に降りると、スターバックが声をかけてきました。 「ハーマン、いい身のこなしじゃあないか。商船に乗っていたと言うだけはあるな。これからも期待しているぞ」 全くよく見ているもの、たいした気配りです。 高級船員の重要な仕事は、船員のモチベーションの維持です。 船長が姿を見せずとも、皆、不安に感じないのはこのスターバックあってこそでしょう。 「よし、いい風だ。取り舵20度。ホルムズ海峡を目指せ」 北東から吹く10月の季節風を帆にはらませ、ピルム号はペルシャ湾をぐんぐんと南下しました。 そして、アラビア半島の先端、古い言葉で「最良の停泊地」を意味するマスカットの港で1度錨を下ろします。 町の背後を囲む峻険な岩山からは、幾筋もの川がエメラルド色の流れとなってペルシャ湾に注ぎます。 おりしも、時は遅咲きのダマスクローズの収穫期。 清涼な水とアラビアの太陽にはぐくまれたバラからは、最高級の精油が抽出されるのです。 摘み取られ、蒸気で蒸されると、朝露と共にふわりと浮き上がるような、馥郁【ふくいく】たる香りが広がります。 反対に、市場のフランキンセンスの芳香は深く沈むようで、夜の果てに1つきらめく星を思わせます。 その香りに魅せられて、ハーマンもジメジメとした船倉の臭い消しにと店に足を向けたのですが、あまりの値段にすごすごと退却いたしました。ふふっ。 この地で、飲み水を補給し、アラビアとの別れを惜しみつつ、船はインド洋に出るのです。 鯨の少ないインド洋を早々と抜け、その後も、東南アジアの島々で補給をしつつ目的地に急ぎます。 目指すはジャパングラウンド、日本の北海道と小笠原諸島、それとハワイを結んだ海域。 多くの鯨が回遊する、豊かな漁場です。 その間も、シンドバード船長は船長室にこもったまま姿を見せませんでした。 スターバックら航海士は船長室で食事を取り、打ち合わせもしているようなので、居るには居るのでしょうがまるで存在感がありません。 船員たちの間では、シンドバードの噂だけが広まっていきます。 その話は、尾ひれが付いたのか、ハーマンがピップという黒人の少年から聞いたのはこのような感じでした。 「船長は昔、世界中の海を冒険したって聞いたよ。 それでロックって言う、象だって捕まえて喰っちまうようなでっかい鳥に襲われたんだってよ。 それだけじゃないよ、同じくらいおっきな蛇や、巨人、あと人食い人種なんてのにも出くわしたらしいんだ。 そのせいで頭がおかしくなっちまったって話だよ」 ハーマンは、鼻で笑いました。 「そんなものいるもんか、それこそここがおかしくなってるんだよ」 そう言って、ピップの頭をつついてやります。 「何だハーマン、おいらが嘘言っていると思ってるのか?」 ピップがハーマンに喰ってかかろうとした所に、横からクィークェグがヌッと現れました。 「人食い人種。いる」 「ほら、クィークェグもこう言ってるぞ」 ピップは、勝ち誇ったように胸をそらせます。 「人食い人種なんて、どこにいるんだよ?」 ハーマンがあきれてそう返すと、クィークェグは自分を指差して見せました。 「うわっ!」とピップが悲鳴を上げて逃げ出そうとします。 クィークェグが、その腕をがしっとつかんだので、かわいそうにピップはいよいよ腰を抜かしてしまいました。 ハーマンは、初めて会った時にクィークェグが干し首を腰から下げていたのを思い出しました。 すると、あの干し首は本物で、この蛮人の大男はあわれなその首の持ち主を……。 「ハハッ、冗談だろ。クィークェグ?」 ハーマンが、震えた声で尋ねます。 「冗談。違う。本当」 クィークェグの返答は簡潔でした。 刺青の入った顔が、ぐぃっと近づきます。 「倒す。敵。戦士。食べる。尊敬。魂。俺。一緒。仲間。食べない」 クィークェグが言いたいのは、食べるのは敵の部族の戦士だけで、それは自分の中に相手の魂を取り込むという、相手に敬意を現した儀式であると。 そして、だから、仲間を襲って食べたりはしないと言いたいのでしょう。 クィークェグは、ピップを立ち上がらせると、ズボンの尻に付いたほこりを払ってやります。 そして、屈託なくニッコリと笑ってみせました。 その様子にハーマンは肩の力を抜きました。 アラビアの流儀に従うならば、人は人種ではなく、能力や人柄で評価されるべきなのです。 そして、このクィークェグほど心優しい人間は、西洋やアラビアでも滅多にお目にかかれません。 「ああ、そうだ。俺たちは仲間、いや友達だ。よろしくな、クィークェグ」 そう言って差し出した右手を、クィークェグは力強く、満足そうに握り返しました。 そんな事があったので、船長の噂についてはうやむやになっておりました。 ただ、夜になるとその噂を思い出してしまいます。 聞こえるのです。 第二甲板のハンモックで揺られていると、上の甲板からあの足音が。 <左 近い ささやき> カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> 左右で異なる足音が。 皆、あれは船長の足音だと噂するのですが、豪胆なはずの海の男たちもその足音を不気味がって誰も見に行こうとしません。 その足音がすると、先程まで大いびきをかいていた者も静かになって、ただただ足音と、ザザーン、ザザーンと深海から招くような波音だけが聞こえるのです。 ハーマンは、その足音が聞こえると毛布を頭まで被るのでした。 (あくび)ふわぁ、眠くなってしまいましたわ。 今夜のお話は、ここまでに致しましょうか。 ねえ、マスター、ご存じですか? 捕鯨船の船室というのは大変狭く、ほとんど寄り添うような感じで寝るそうですよ。 (抱きつく)んっ、こんな風に。ふふっ。 今夜は、わたくしたちも捕鯨船に乗ったつもりで寝ましょうか。 (甘えた演技で)ねぇ、マスター。腕枕、していただけませんか? ふふっ。ありがとうございます。 明日のお話は、もっと、面白いですわよ。ふふっ。 〇第八夜 <左 普通> さて、ハーマンは今日もマストに登っておりました。 今回は、帆を張るためではございません。 マストのてっぺんには、物見台が取り付けられております。 物見台とは言いましても、申し訳ばかりの足場に落下防止用の鉄の輪が1本、腰の高さに渡されている程度の物でございます。 ですから、30メートルもある物見台から下を見れば。 <左 近い ささやき> ほぉら、甲板を歩く船員の頭が豆粒のように、さえぎる物なく、よぉーく、見えるのでございます。ふふっ。 一歩、足を踏み外してしまえば命の保障は無いでしょう。 そして、その足場は波で揺れているのです。 尋常な神経の持ち主が立てる場所ではございません。 小心者のわたくしなどは、 (耳吹き)ふーーーっ。 と風が吹く度に、膝から力が抜け、(腕に抱き付く)んっ、こんな無様に、ぎゅっと、マストにしがみ付いて震えてしまうでしょう。 (あざとく)ああ、想像しただけで恐ろしゅうございます。ふふっ。 <左 普通> (素に戻って)はい。それにもかかわらず、物見台に立ちたいと希望する者が多すぎて、立つ順番をくじで決めねばならない状況でした。 いきさつは、次のようなものでした。 フィリピンでの補給を終え、いよいよ鯨が回遊する海に入ると、スターバックがこう告げたのです。 「鯨を見つけた者には特別報酬を出す」と。 その額は、ヒラ水夫の給料にしておよそ10日分。 捕鯨船は、何をするにもまず鯨を見つけねば仕事になりません。 そういった都合から、発見者には気前よくポンと渡すのが慣習になっておりました。 このような慣習からも、捕鯨がいかに景気のいい仕事か分かります。 というわけで、我先にとマストにかけられた縄梯子を登ろうとする船員たちに向かって、スターバックがあらかじめ用意していたくじを差し出したのでございました。 3本のマストには、前後には1つ、真ん中には2つ、合計4つの物見台がございます。 ハーマンは、くじ運が良く一番高いメインマストに立っておりますが、横に1人、前のマストに1人、後ろのマストにも1人いて、皆キョロキョロとしきりにあたりを見回しております。 そんな中、ハーマンが声を張り上げました。 「吹いたぞーッ!」 それは、鯨取りならば誰もが待ち望む声でした。 物見台に立つ船員たちが、一斉にハーマンの指差す方向に双眼鏡を向けます。 「本当だ。いたぞ。群れだ、3、4……いや、5頭いるぞッ!」 甲板にも興奮が伝わり、船員がそちらの船べりにドッと集まります。 そんな中、スターバックは冷静に尋ねます。 <左 遠い> 「潮はどうだ? どんな風に吹いている?」 <左 普通> そう問われて、ハーマンは再び双眼鏡をのぞき込みました。 双眼鏡の中では、黒い巨体が海を割って現れ、ブシューッと高く潮を吹き上げ、また海へと沈みます。 「左です。左前に向かって吹きましたッ!」 <左 遠い> 「マッコウクジラだ。上物だぞ、よくやったッ!」 <左 普通> はるか下の甲板から、スターバックの喜色に満ちた声が返ってきます。 鯨は、噴気孔から潮を吹きますが、種類によってその噴気孔の形に違いがあるのです。 当然、噴気孔の形が違えば、潮の吹き上げ方も違ってきますので、鯨取りたちはどんな風に潮を吹くかで、鯨の種類を判別するのです。 <左 遠い> 「よし、メインマストに1人残して後は降りてこい。ハーマン、お前も早く来い。俺のボートに乗せてやるぞッ!」 <左 普通> ハーマンは喜び勇み、縄梯子に手をかけます。 スターバックは、伝声管に向かって叫びました。 <左 遠い> 「機関室、鯨が出た。追うぞ。ボイラーに火を入れろ、ガンガン炊けッ!」 <左 普通> そして、甲板に降りたハーマンに命じました。 「お前は俺の助手になってもらう、1番ボートだ。火を入れろッ!」 ピルム号には4艘の捕鯨ボートが備えつけられております。 1から3番はそれぞれの航海士が担当し、4番はシンドバード船長の担当です。 スターバックは、クィークェグを捕まえて命じます。 「クィークェグ、ご自慢の銛を持って来い。綱に結びつけるんだ」 クィークェグがうなづいて船倉に向かおうとしたその時です、あの足音が聞こえました。 <左 近い ささやき> カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> 先程までのけん騒が嘘のように静まり返り、みな、固まってしまい動きません。 海まで凍りついたかのように、波の音すら耳に入りません。 そんな静寂の中、足音だけが響きます。 カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> その音は、徐々に大きくなります。 足音の主は、ハッチから姿を現します。 カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> 漆黒のターバンからのぞく白髪【はくはつ】。 カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> 浅黒い肌。 顔には、左目の上を縦に裂く、稲妻が古木に刻んだような傷跡。 カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> 服も黒。 ただ、ズボンは左膝のところでスッパリと裁ち切られ。 カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> 見せつけるかのようです。 (ためを作って)その、真っ白く硬質な、左の脚を。 カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 これは、革靴が立てる音。 <左 近い ささやき> カツン。 こちらは、なまめかしいまでに白い脚が立てる音。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い> カンッ、と鋭い音。 同時に、ブシューッと蒸気が噴き出し、足音の主を覆い隠します。 <右 普通> 「スターバックよ。見つけたのは白鯨か?」 その声は背後から聞こえました。 驚いて振り返ると、つい先程まで眼前にいたはずのその男は、船の舳先【へさき】に立って海を見ているではありませんか。 一瞬であんな所に! ハーマンは、驚いて視線を下に動かします。 そんな芸当を可能にしたと思われる、その男の左脚に。 シャイターンの角のように、鋭く尖らせたつま先。(※シャイターンはサタンのアラビア語読み) 足首の継ぎ目からは、鋼の歯車が無骨な姿を覗かせ。 優美な脚は、職人の手になる鯨骨の細工。 その内側に仕込まれているのは、碩学が開発したばかりのシリンダーでしょうか。 かかとの排気筒からは、薄く蒸気をたなびかせております。 その風格。 ハーマンら、初めてその姿を見る船員にも、その男が誰なのか分かりました。 シンドバード船長です。 <左 普通> 「チッ」 ハーマンの隣で、スターバックが小さく舌打ちしました。 「い、いえ、分かりません。マッコウ鯨の群れではあるようですが……5頭ほどの」 あんなに快活だったスターバックが、歯切れ悪く答えます。 「何? 群れだと。そうか、そうか」 シンドバードは、急に興味を失ったように海を見るのをやめて、こちらに歩いてきます。 「では、白鯨ではないな。あやつは、あらゆるものを見下す傲慢【ごうまん】と闘争心の怪物。群れたりなどせん」 スターバックは、一言も答えず、口を引き結んでうつむいております。 「さあ、新入りどもよ、これは訓練だ。お前たちの有能さをこのシンドバードに見せるがいい。よい働きをした者には報酬を出そう。身分など関係無い。奴隷だろうが船長にもなれる、それがアラビアだッ!」 一同から、「ウオォーッ!」、「船長ォーッ!」と歓声が起こります。 シンドバードは、船員を見回して、「鯨を見つけたのは誰だ?」と問いました。 「お、俺です」 ハーマンが一歩前に出ました。 船員たちの視線が、ハーマンに集まります。 彼らの褐色に黒の肌、髭面にハゲ頭、黒に薄茶の瞳が、白い肌と碧眼のハーマンに注がれます。 その中を、シンドバードが進み出て、ハーマンの前に立ちます。 それなりの歳ではあるのでしょうが、シャンと背筋が伸ばされた立ち姿からは、微塵の衰えもうかがえません。 同じくらいの背丈なのに、見下ろされているような威圧感があります。 そのシンドバードの黒曜石色の瞳が、ハーマンをまっすぐ見据えます。 ハーマンは、ゴクリとツバを飲みました。 「ふむ、マッコウ鯨が5頭だったな」 シンドバードは、腰の革袋に手を入れて探り、ハーマンの前でその手を広げて見せました。 手のひらからあふれんばかりのディルハム銀貨が、赤道近くの強い陽光にまばゆく輝きました。 「15ディルハム、1頭につきだ」 銀貨1ディルハムというのは、現在で言うとおよそ1万円くらいの価値です。 なんと、マッコウ鯨の群れを見つけただけで75万円のボーナスが出ると言うのです。 その輝きに、ハーマンはくらりとしました。 ふらりと足元がおぼつかなくなったのは、波のせいだけでは無いでしょう。 シンドバードは、その輝きが一同を十分に魅了したと見ると、さっと革袋に戻しました。 「どうした、何をつっ立っておる。鯨を取れぬ鯨取りに価値など無い。お前たちの力をワシに見せろ。働きの分だけ報酬を出そう。さあ、行ってこい。早い者勝ちだッ!」 その言葉に、船員たちは我先にと持ち場に駆け出しました。 ハーマンも、1番ボートに急ごうと足を踏み出したところで、その場を動こうとしないスターバックに気付きました。 奥歯を噛みしめて、苦い顔をしております。 「スターバックさん、大丈夫ですか?」 「……ああ、大丈夫だ、問題無い。さあ、行くぞ」 ハーマンの問いにそう返して、スターバックはボートに走ります。 ハーマンは、一回り小さくなって見えるその背を追うのでした。 捕鯨ボートが、海に下ろされます。 1番ボートには、ハーマンとスターバック、そしてクィークェグの3人が乗り込みました。 かつては、航海士と銛撃ちの他にオールを漕ぐ水夫が4人から6人で1組でしたが、蒸気機関の発明によって十分な推進力が確保され、3人となったのです。 舵【かじ】を取る航海士とそれを補佐する助手、銛撃ちの3人という構成です。 ハーマンが、ふいごで空気を送ると、炉の中で炎がゴウゴウと燃え上がり、タービンをいっそう激しくうならせます。 スクリューが力強く水をかき、海面下に沈んではまた浮き上がり潮を吹く鯨の背にぐんぐん近づいて行きます。 近づくにつれ、吹き上げる潮の生臭いにおいが、そして、顔にかかる水しぶきに残る鯨の体温の残滓【ざんし】を感じられるようになります。 クィークェグが、銛を握り、軽く腰を浮かせました。 その時です、鯨は尾を宙に高く上げ、真っすぐに海に消えていきました。 「クソ、逃したかッ!」 挟み込むように鯨を追っていた2番ボートから悔しがる声が聞こえます。 追っている最中に、既に4頭が同じように潜っていき、先程のものが最後の1頭だったのです。 鯨は、魚ではなく哺乳類でございます。 つまり、呼吸のために空気中に頭を出さねばなりません。 鯨の噴気孔というのは、鼻でございまして、潮吹きというのは要するに息を吐く時に鼻に入った水を一緒に飛ばしているのです。 マッコウ鯨は、鯨の中でも特別で、筋肉にも大量の酸素を蓄える事が可能です。 海面に顔を出すと、泳ぎながら数十回潮吹きを繰り返し、全身に酸素を送り込みます。 そうやって、十分に呼吸を済ませると、他の鯨でも至れぬ2000メートルの深海まで真っすぐ潜っていくのでございます。 そのまま40分から1時間ほども、深海でマッコウ鯨だけがありつけるご馳走に舌鼓【したつづみ】を打つのです。 要するに、一度潜られてしまうと人間としては手の出しようが無いのです。 「いったん船に戻るぞ。また潮の流れの先で顔を出す。先回りしてそこを狙うんだッ!」 2番ボートが旋回しようとします。 「まて、こっちに何かいる。吹いたぞ。小さい。子鯨だ。子鯨がいるぞッ!」 3番ボートが子鯨へと向きを変えました。 「でかした。3番ボート、銛を撃て。いいか、殺すんじゃないぞッ!」 スターバックは、声を張り上げます。 3番ボートでは、銛撃ちが舳先に立ち、子鯨に向かってブンッと銛を投げました。 「よし、刺さったぞッ!」 子供とは申しても鯨でございます。 その全長は6メートルを超えます。ボートよりも大きいのです。 しかしながら、背に刺さった銛は大人の鯨を捕えるための物。 長大な銛が突き刺さったさまは、なんとも痛ましいものでございました。 子鯨は悶え、その体を中心に赤色の混じった波が広がります。 1番ボートは子鯨の左、2番ボートは右に距離を置いて陣取りました。 (やさしい声で)マッコウ鯨はメスが群れを作るのですが、その群れは血縁で繋がっております。 マッコウ鯨のメスは家族思いでして、大人が一頭は子鯨に寄りそい面倒をみます。 交代でエサを取り、幼いが故に深く潜れない子鯨に乳を与え、守ってやるのです。 そんな風に、お腹を痛めて産んだ母鯨以外の鯨も、母同然の愛情をもって子鯨に接するのです。 まあっ、なんと麗しい家族愛でございましょう。ふふっ。 <左 近い ささやき> そんな愛情を受けて育つので、子鯨は鳴くのです。 「え゛〜ん、え゛〜ん」と、ちょうど人間の子供のように。 そんな声で鳴くものを、やさしい鯨たちが放っておけるでしょうか? ふふっ。 <左 普通> 「戻ってきたぞッ!」 スターバックが、母鯨と並走するように舵を切ります。 距離10メートルというところで、クィークェグがすっと立ち上がり、銛を投げました。 クィークェグ自慢の銛は、鋭い刃で肉を切り裂いて、母鯨の背に深く突き立ちました。 母鯨が悶えます。 逃れようと巨体を走らせるのですが、銛の大きなかえりが肉に喰い込んで放しません。 暴れれば暴れるほど、がっちりと喰い込みます。 銛には綱が結ばれており、その綱は捕鯨ボートへと伸びております。 綱はピンと張り、捕鯨ボートは鯨に引きずられて、水面【すいめん】を滑るように進み出しました。 銛というのは鯨を倒すための武器ではなく、こうしてボートを引かせて疲労させ、弱らせるための道具なのです。 銛から伸びた綱は舳先に彫られた溝を通り、船の中央を貫くように走って、船尾にある綱柱【つなばしら】を一周ぐるりと回って綱桶【つなおけ】に納められております。 11メートルにもなる親鯨の力は凄まじく、綱桶からは綱がどんどん出て行きます。 クィークェグが、予備の銛を海に投げ捨てました。 予備の銛は、初めの銛を外した際に投げる物です。 当然、命中したならば同じように機能しないといけませんので、綱は二又に分かれていて、予備の銛にも結ばれております。 ですから、こうして海に投げておかないと、綱を鯨に引かれた際に、跳ね飛ばされた予備の銛がボートの乗員を傷つける恐れがあるのです。 綱の出る勢いは衰えず、綱柱から煙が上がり始めました。 「ハーマン、帽子を脱いで、綱柱に海水をかけるんだッ!」 スターバックの指示に、ハーマンは帽子を器にして綱柱に海水をかけて冷やします。 放っておけば、摩擦熱で発火してしまうくらい鯨の力は強いのです。 綱桶の綱はみるみる減っていき、桶の内側に印された、残った綱の長さを示す目盛が1つ、また1つと見えてきます。 300メートルある綱が残りわずかとなると、スターバックの顔つきが険しくなりました。 綱の終端は桶に収まっているだけで、どこにも固定されていないのです。 もし綱が固定されていたら、捕鯨ボートは自身よりもはるかに大きな鯨の力をまともに受けて転覆してしまいます。 ですから、綱柱に巻き付ける事で力の一部だけを受けるようにしているのです。 つまり、綱が尽きれば鯨に逃げられてしまいます。 せっかくの獲物を逃がすわけにはいきません、クィークェグは手で綱をつかみ、少しでも綱の減りを遅らせようとします。 ハーマンもそれにならいましたが、手のひらに燃えるような痛みが走り、すぐに手を放してしまいました。 綱をつかみ続けるクィークェグの背には、一面に汗が浮かんでおりました。 ハーマンも帽子を手袋代わりにして、再び綱をつかみます。 綱柱に水をかける役は、スターバックが引き継ぎました。 綱桶の底も見え、もはやこれまでかと思ったその時、ふっと綱が緩み、ハーマンは尻もちをつきました。 クィークェグもふらりと、倒れ込んできます。 <右 近い ささやき> んっ。ふたりはボートの上で、こんな風にもつれあってしまいました。ふふっ。 「クィークェグ、重い、俺の上からどいてくれ」 ハーマンは、文句を言います。 はい、そうですクィークェグは大男ですから重いのでございます。 わたくしでは、雰囲気が出ないかもしれませんが。ふふっ。 ほら、わたくしは羽毛のように軽いものですから。 んー? <正面 普通> (棒読み)「ゲホッ、ゲホッ、クィークェグ、肘、肘」 あらあら、クィークェグは立ち上がる際に、「誤って」ハーマンのみぞおちに肘をついてしまいました。ふふっ。 <左 普通> 「おいおい、何してるんだハーマン」 (冷ややかに)スターバックはあきれております。はい、ハーマンに対してあきれております。 「やったぞ、さあ綱をたぐるんだ」 3人で綱をたぐり、再び綱桶に納めていきます。 すると波間に浮かぶ鯨が見えてまいりました。 綱をたぐると、鯨の姿は徐々に大きくなります。 噴気孔からこぽり、こぽりとねばついた血を吹き、その血の赤が海の青と混じり周囲を紫に染めております。 鯨は、その巨体にしては小さな目で、まばたきもせずこちらを見つめておりました。 スターバックは、慎重に鯨の脇にボートを寄せて立ち上がります。 「ハーマン、場所を代われ。いいか、鯨が暴れたらすぐにボートを出すんだ。絶対に目を離すなよ」 そう言い含めて、ボートに置かれた槍を取ります。 ほとんどボートの全長と変わらない、6メートル近い長大な物です。 これこそが鯨を殺すための武器です。 頭の先から3分の1ほどの所、鯨の肌にしわが寄り始めた所に慎重に狙いを定めます。 マッコウ鯨の頭の部分は肌がつるりとしており、胴体はしわになっているのです。 そうして、エイッという掛け声と共に槍で突きました。 槍は、鯨の胴に深々と刺さりました。 鯨が体をひねって暴れます。 「危ないッ!」 槍の柄が船べりに当たって、ボキリと折れました。 「早く、ボートを出せッ!」 ハーマンは、慌ててレバーを操作してボートを発進させます。 ボートは間一髪の所で、鯨の体がぶつかるのを免れました。 鯨は、せき込むようにゴフン、ゴフンと血を噴き出します。 そして、しばらくもがいて、大人しくなりました。 スターバックが槍で狙ったのは鯨の肺です。 鯨は、自分の血でおぼれ死んだのです。 「やったッ!」 「おいおい、すぐにボートを出せと言っただろ。まったく、ヒヤッとしたぞ」 歓声を上げるハーマンに、スターバックが苦笑を返します。 「早くピルム号に戻りましょう」 ハーマンはそう言って周囲を見回すも、一面波ばかり。 ピルム号の姿はどこにも見えません。 鯨に引かれてずいぶん遠くまで来てしまったようです。 それに、鯨との戦いに精一杯でどの方角から来たのかも覚えておりません。 「バカ、こんな小さなボートで鯨を船まで引っぱって行けるはずないだろ。 ピルム号が迎えに来るのをここで待つんだよ。 心配するな。ピルム号では、マストの上からボートがどっちに行ったのか確認しているからすぐ来てくれるさ」 スターバックは、腰を下ろして付け加えました。 「よくやったな。ハーマン、初めてにしては上出来だ。クィークェグ、お前じゃなかったらこの鯨はのがしてた」 (手を握る)クィークェグは傷だらけの手のひらで、ハーマンの手を握ります。 ハーマンも、その手を握り返します。 (ムッとして)その柔らかくて繊細な手を握り返します。 握り返してください。 <左 近い ささやき> よくできました。ふふっ。 <左 普通> 「お2人さん、お熱いねぇ〜」 そんな2人を、スターバックがヒュ〜っと口笛を吹いて茶化します。 「いや、まあ、本当によくやってくれた。綱桶の底が見えた時にはまた追っかけ直しかと思ったが、メスだったからマッコウ鯨でも3人で仕留め切れたな」 その言葉に、浮ついていたハーマンの心が現実に引き戻されます。 「えっ、メスだったから?」 ハーマンは、口をぽかんと開けます。 「なんだ、知らないのか」 スターバックは、諭すように言いました。 「マッコウ鯨はオスの方がずっと強いんだ。全長は1.5倍以上あるし、体重は3倍はある」 「この鯨の3倍だって?」 ハーマンは、驚きと共に仕留めた鯨を振り返ります。 振り返ったハーマンの目に、鯨の胴に刺さって折れた槍が映りました。 「あっ」とハーマンは声を上げます。 思い出したのです。 船の名前である「ピルム」、それはかつてローマ軍が使った投げ槍の名です。 それは、敵からも味方からも嫌悪される槍でした。 味方にも嫌われるというのは、ピルムがただ1つの機能のみを追求して作られた事が関係しております。 普通の槍は、戦場で役に立つのはもちろん、服の袖に2本の槍を通せば即席の担架に、3本組み合わせれば狩りの獲物を吊るす三脚にと、いろいろ重宝するものでした。 それに対してピルムは、重く作ってあるわりに、杖にもできないほど壊れやすかったのです。 そんないびつな設計なのは、投げたピルムが敵に突き刺さると、自らの重量で折れ曲がるようにするためです。 その目的は、敵が投げ返せないようにする事、そして、敵の盾や体に突き刺さってその重さで行動を制限する事です。 ピルムとは、1度しか使えないように作られた武器なのでございます。 「おお、お迎えが来たなぁ」 スターバックが、呑気に水平線の彼方から近づいてくるピルム号に手を振ります。 徐々に大きくなるその船影を見て、ハーマンは言いようのない不安を覚えるのでした。 さて、きりのよい所まで話したら少々長くなってしまいましたね。 今夜のお話は、ここまでにいたしましょうか。 <左 近い ささやき> 明日のお話は、もっと、面白いですわよ。ふふっ。 〇第九夜 <左 普通> さて、先日の捕鯨では、2番ボートも一回り小さなメスのマッコウ鯨を、3番ボートは初めに銛を撃った子鯨を仕留め、合計3頭という大戦果となりました。 シンドバードが船員に語りかけます。 「諸君、3頭仕留めるとはよくやった。次の捕鯨に備えて英気を養ってくれ……と言いたいところだが、仕留めた鯨は解体してこそ価値が出る。休みは解体が終わるまで待ってもらおうか。痛むと価値が落ちる。さあ、急いですますぞ」 まずは、ハーマンたちが取った鯨から順に解体する事になりました。 その1頭がピルム号に横づけするように浮かべられ、残りの2頭は場所があき次第、順次移動して解体する手筈になりました。 「この鯨を追ったのはハーマンと言ったか。鯨を見つけたのもお前だったな。よくやった。特等席で鯨の解体を見せてやろう、お前が助手に付け」 ハーマンは、シンドバードと共に捕鯨ボートに乗り込んで、命じられるままに鯨の頭の横にボートを付けます。 シンドバードは、鯨骨と鋼の左脚を踏みにじるかのように鯨の頭にかけました。 差し出された右手に、ハーマンは剣を手渡します。 それは、刃渡り1メートル半はあろうという大ぶりな代物。 鯨の解体に使われる専用の剣です。 シンドバードは、その剣を両手で振りかぶり、 「ビスミッラー、アッラーフアクバルッ!」 の言葉と共に、一刀で鯨の喉を切り裂きました。 その後、首の後ろの肉を切り、あらわにした脛骨【けいこつ】の隙間を、剣の重さにまかせて断ち切ります。 あっという間に、鯨の頭と胴体を切り離してしまいました。 まずは胴体の方から先に手を付けます。 鯨の頭は、後で解体するよう船の反対側に曳航【えいこう】していきました。 首の断面から斜めに切れ込みを入れていきます。 「そこの小刀で脂身を肉から切り離すんだ」 ハーマンは、白い脂身と赤黒い肉が2層になっているその間に、小刀を差し込んで切り分けます。 ベロリと帯状にめくれ上がった脂身の端に、小刀を突き刺してこじり、穴をえぐり抜きました。 頭上から滑車でフックが下ろされると、今しがた開けた穴にそのフックを通します。 甲板でレバーが操作されると、フックが上に向かって巻き上げられていきます。 鯨の胴体が海面から浮き上がり、ピルム号が持ち上げた鯨の重さで傾きます。 やがて、自身の重さに耐えきれずバリバリという音を立て脂身が肉から引きはがされ、その反動で船が、ぐわんと逆方向に揺れました。 そのような調子で、シンドバードが入れるらせん状の切れ込みに沿って、厚さ30センチにもなる脂身が帯状にはがされていきます。 蒸気の力で鯨が解体されるさまに、シンドバードは肩を震わせて笑います。 「どうだ、分厚い脂身だろう。マッコウ鯨は全身をこの上等な脂身で鎧っておるから生半可な銛では突き殺す事ができんのだ」 その脂身の鎧を引きはがされるにつれ、鯨の巨体がハーマンの目の前でぐるぐると回り、赤黒い中身がさらされていきます。 ちょうど、リンゴの皮をクルクルとむくような感じでございます。ふふっ。 そうやって甲板に引き上げられた脂身は、フックを通した所から30センチほど下に新たな穴を開けられ、その穴に別のフックを通します。 そうしましたら、2つのフックの間で脂身を切り分けるのです。 重いナタのような刃物を両手で構え、真横から2回、3回と叩きつけて切り放します。 その後、脂身の帯は再び持ち上げられ、また新たな穴を開けてフックを通し、とこの作業を繰り返していきます。 切り分けられた脂身は、まな板の上に置かれ細かく隠し包丁を入れられます。 そうして、下処理を終えた脂身は煮立った釜にボチャンと投じられ、油を煮出されます。 なるべく細かく隠し包丁を入れるのは、この際に油が溶け出しやすくするためです。 そうしてお湯の上に溜まった鯨の油、鯨油【げいゆ】をすくい取って、樽に詰めていくのです。 油を煮出された脂身は、くしゃくしゃにしぼみますが、それでもまだ煮出し切れなかった油をたっぷりと含んでおります。 それをこのまま捨ててしまってはエコではありませんね。 ですが、ご安心ください。 しぼんだ脂身にもよい利用法がございます。ふふっ。 鯨油を煮出すかまどに、ポイとくべてやるのです。 脂身はよく燃え、ぐらぐらと釜を煮立たせます。 そう、鯨は自らの油で煮られるのでございます。 一方その頃、ハーマンは顔をしかめておりました。 温血な動物が解体されるのを好むような神経の持ち主ではありませんが、ハーマンが顔をしかめていたのには別の理由がございます。 はい、マッコウ鯨の肉は臭いのです。 たまらぬ悪臭に吐き気を覚えておりました。 そして、まき散らされた鯨の血の香りに誘われて、ゲテモノ喰らいの鮫どもがやって参ります。 一匹の鮫が、鯨にかぶりつこうと大きな口を開けます。 その下あごをシンドバードの剣が貫きました。 「鯨を喰らいたくば、自分で狩るがいい」 血に酔った仲間の鮫が、その鮫にむらがります。 シンドバードは、剣で鯨の肉を切り取ってつまみ上げ、その血を海水で洗い流します。 そして、口を大きく開けて、見せつけるように肉を咀嚼【そしゃく】し、悪魔めいた笑みを浮かべました。 うーん、物語としては、血の滴る肉を食べて白髭を赤く染めるくらいの狂気を披露していただきたいところなのですが、イスラームには血を食してはならないという戒律がありますので仕方ありませんね。 さて、シンドバードは、血で赤く濡れた剣の先を鯨の胴体に向けて、口の端を吊り上げます。 「次は骨だ。肋骨を引きはがせ」 ハーマンは、思わずシンドバードから目をそむけました。 恐ろしいイメージを振り払うように、次の作業に集中します。 肋骨を1本、また1本と背骨から切り離し、フックにロープで縛り付けていきます。 甲板では、引き上げた肋骨をナタで断ち切って、脂身と同じように釜に放り込んでいきます。 鯨の骨は内部がスポンジ状になっており、そこにも油をため込んでいるのです。 肋骨が終われば、背骨へと移り、1本残らずきれいにしゃぶり尽くしていきます。 ハーマンがそうして骨と格闘している間、シンドバードは鯨の腹を割いて腑分け【ふわけ】をしておりました。 丸い臓器が、腹の裂け目からごろんとこぼれ出します。 鯨の内蔵は、深海の水圧にも耐えられるよう、単純な形をしているのです。 肺や胃、肝臓などの邪魔な臓器は海に捨て、引きずりだした腸を小刀で切り裂いていきます。 腸を切り進めるほどに、ツンと耐えがたい悪臭が広がります。 甲板からも不平の声が上がりますが、間近にいるハーマンは声すら出せません。 ハーマンは、この時ばかりは久しく食事を取れていない事に感謝しました。 そうでなかったら、胃の中身を全て吐き戻していたでしょう。 シンドバードは、そんな批難も悪臭もお構いなしに手を動かし続けます。 半ばで腸を切り開くシンドバードの手が止まりました。 すると、袖が血で汚れるのも構わず、切り開いた腸に手を突っこみます。 「あったぞ、お宝だ」 探り出した物を、海水で洗うと甲板に向かってかかげて見せました。 古株の船員が、「ウォォーッ!」と歓声を上げるのを、新入り達はキョトンと眺めます。 シンドバードがかかげるそれが、到底お宝などには見えなかったからです。 人の頭ほどの大きさで、脂肪の塊のようにブヨブヨ、あるいはドロリとしており、色も黒と琥珀色のまだら模様でお世辞にもきれいとは言えません。 これは、マッコウ鯨の腸からだけ取れる物でして、他の鯨からは見つかりません。 マッコウ鯨の腸から分泌された脂肪が固まった物ですとか、あるいは消化しきれなかったエサがマッコウ鯨の腸内で変化した物などと言われておりますが、定かではございません。 と言いますのも、マッコウ鯨の体内で見つかる事すら稀ですので、調べるべき鯨に出くわす事からして難しいのです。 その割合は、100頭に1頭ですとか、1000頭に1頭などと言われます。 これは、かつては鯨のフンのように言われており、なんら価値のない物でした。 ですが、アラビアでこの物質を熟成させた物から、香料を抽出する方法が発見されるとその価値は一変しました。 その、露に濡れる林にただようような甘い香りは、世界中の女性をうっとりと魅了したのです。 マスターは、龍涎香【りゅうぜんこう】という物をご存じでしょうか? 同じ重さの金と、時にはそれをはるかに超える額で取引された幻の香料の事です。 このマッコウ鯨の腸から見つけた物が、その龍涎香でございます。 龍涎香から作られた香水はたいへん珍重されました。 今でも、シャネルの5番などという香水に龍涎香が用いられているようですよ。 古来、高貴な女性への愛の証として贈られたものです。 例えばー、ん〜、そうですね〜、 <右 近い ささやき> んっ。(ゆっくりと)わたくし、とか。ふふっ。 (甘えた声で)ねぇ、マスターぁ。わたくし、マスターに愛していただけておりますかぁ。 お慕い申し上げるマスターに、大切に思っていただけているのでしょうか? ああっ。わたくし、不安で胸がはり裂けそうでございます。ふふっ。 <左 普通> と、マスターをからかうのはここまでにしておきまして。 鯨から価値のある物を取り終えましたら、残骸は海に廃棄します。 海水に浮く脂身をはぎ取られた鯨は、海に沈んでいきます。 鯨の巨体は、深い深い海の底に住む名も知れぬ生物の貴重な糧【かて】となって生態系を支え、100年の時をかけてゆっくりと分解されるのです。 あっ、そうでした。 これがオスの鯨ですと、他にも大事な所がございました。 <左 近い ささやき> オスの鯨の大事な所を、根元でズバッと切り落として、先端もチョキンと切ってから、縦にツーっと切れ込みを入れ、そこからバリバリッと皮をはがすのです。ふふっ。 はがした皮は、縮まないようにびろーんと倍の大きさになるくらい引っ張った状態で干してから使います。 そうすると、耐水性と伸縮性に優れた最高級の皮になるのでございます。 捕鯨船では首と腕を通す穴を開けると、油を煮出す時にお湯や油が跳ねても大丈夫な最高のポンチョになると喜ばれておりました。 しかし、靴にでもすれば1足で数十万円は下らないので少々もったいない使い方でございますね。 (とぼけて)あら、マスター大丈夫ですか? 苦しそうなお顔をされておりますが。 <正面 近い> んー。こうして額を重ねてみても、どうやら熱は無いようですね。ふふっ。 マスター、お仕事などでご心労が多いかもしれませんが、どうかご自愛くださいませ。 (額にキス)チュッ。ふふっ。 <左 普通> さて、胴体の解体が終われば、次は頭です。 まず唇の端から刃物を入れ、下あごを切り離します。 マッコウ鯨の下あごの骨はしっかりと詰まっていて丈夫で、細工の素材として好まれておりました。 シンドバードの義足も、この下あごから削り出した物でございます。 また、マッコウ鯨は下あごにだけ、20センチにもなる大きな歯が生えており、この歯は工芸品などに用いるのです。 ピルム号の欄干を飾っているのが、この歯ですね。 あごを外したら、いよいよ本番でございます。 マッコウ鯨の頭部は、他の鯨と大きく異なります。 多くの鯨が、水の抵抗を受けにくい流線形をしているのですが、マッコウ鯨は頭が大きく張りだした四角い箱型をしております。 この箱型の頭にノミと金づちで穴を開けると、花のようにかぐわしい香りが立ちのぼります。 そこには、白く濁ってドロリとしたものが詰まっておりました。 「くみ出すんだ。1滴もこぼすなよ」 シンドバードがそう厳命するのも、当然の事。 これは鯨脳油【げいのうゆ】と呼ばれる最高級の油で、なんと同じ重さの銀と取引されるのでございます。 この鯨脳油が成長したオスのマッコウ鯨ならば、1頭で2.5トンも取れるのです。 捕鯨の対象として好まれた鯨には、他にもセミ鯨があります。 セミ鯨は、マッコウ鯨よりも大きく、鈍重で大人しいので、捕まえやすく鯨油もたくさん取れて肉もおいしい、おまけにマッコウ鯨には無い鯨ヒゲ【くじらひげ】も取れる大変よい獲物でした。 この鯨ヒゲは、軽くてしなやかな、現在で言うとプラスチックのような大変便利な素材で、釣り竿や傘、楽器に用いられたり、西洋のご婦人方のスカートをふわりとふくらませたりとさまざまな用途に用いられたものです。 それにも関わらず、セミ鯨よりもマッコウ鯨の方がよい獲物とされたのは、マッコウ鯨の鯨油の方が良質とされたのに加え、銀と同じ価値の鯨脳油があったからでございます。 ハーマンはノミで開けた穴からひしゃくをさし入れて、そのかぐわしい鯨脳油をすくい出し、桶に移していきます。 鯨脳油が桶の8分目まで溜まると、フックに引っかけて甲板に上げ、そこで保存用の樽に移していきます。 鯨脳油をくみ出していくと、底にスポンジ状のものが見えてきました。 マッコウ鯨はこのスポンジ状の組織で、鯨脳油を作っているのです。 その組織もひしゃくですくい出し、スポンジの中に含まれている鯨脳油を丁寧に手で桶に絞っていきます。 プチプチと手の中でやさしくつぶれる度、華やかな香りが広がります。 自然とハーマンの口元がほころびました。 銛綱ですれた手のひらの傷も癒されるようです。 鯨脳油は、万能の軟膏とされておりました。 当然ながら、万能薬というのは眉唾ではあります。 しかし、鯨脳油を絞ると手は若い娘のようにすべすべと潤い、花のような香りをまといます。 ですから、何かと嫌われがちなマッコウ鯨の解体作業の中で、この鯨脳油絞りだけは好んで行われました。 荒くれな海の男も、夢見心地で1滴を惜しんで絞ったそうです。 ハーマンもその作業に陶酔しておりますと、横からスッと腕が伸びてスポンジ状の組織と桶を取り上げていきました。 あっ、と我に返ると、桶を奪ったシンドバードは、フックに義足をかけロープを握って、「フックを上げろ」と甲板に向かって告げました。 シンドバードは甲板に降り立つと、鯨脳油で満たされた桶を持ったまま、ハッチから下の第二甲板に降りていきます。 「船長。どちらに?」 スターバックが声をかけるものの、シンドバードは意に介さずカツコツと大股で進みます。 スターバックは、慌ててその後を追いかけます。 向かった先は、最下甲板の最後尾、機関室でした。 シンドバードは、スポンジ状の組織を桶の鯨脳油にひたし、蒸気機関の歯車の上でギューっと絞りました。 キィーと甲高い音を立てていた歯車が、上等な鯨脳油に濡れて文句を収めたかのように滑らかに回り出します。 そして、 「炉を開けろッ!」 機関士たちが、その気迫に驚いて炉のふたを開けます。 「ちょっと、船長ッ!」 追いついたスターバックが止めようとするも時遅し。 シンドバードは、桶いっぱいの鯨脳油を炉の中にぶちまけました。 炎はにわかに勢いを増して赤々と燃え上がり、機関室にかぐわしい香りがぶわっと広がります。 その炎に熱せられた水蒸気が、タービンを激しく回しました。 船の舷側では、2頭目の鯨の脂身を切っておりましたが、急に強まった蒸気機関の力に鯨が勢いよく回転し、作業員が海に落ちてしまいました。 甲板では慌てて、ギアを切り替えフックを巻き上げるのを止めます。 「さあ、汽笛を鳴らせッ!」 シンドバードが脇のレバーを引くと、ピルム号がポォォォーッと汽笛を響かせ、水蒸気を高く、高く、鯨のように高らかに吹き上げました。 「白鯨よ、ワシはお前を倒しに戻ってきたぞッ!」 シンドバードはそう叫んで哄笑を上げます。 1人、鯨の頭の脇に取り残され、する事も無く座っていたハーマンは、その汽笛に応えるかのように、水平線のはるか彼方で高々と潮が吹き上がるのを見たような気がしました。 話はまた機関室に戻り、スターバックは、間に合わなかったかとばかりに額に手をあて、天を仰いでおりました。 彼が漏らした文句は、あいにくと汽笛と哄笑にかき消され、シンドバードの耳には入りませんでした。 それは、このようなつぶやきでした。 「船長、鯨脳油を使うなんてもったいない。燃料は普通の鯨油にしてくださいよ」と。 はい、鯨を、それも食用に向かないマッコウ鯨を取るのは鯨油を取るため。 鯨油を取るのは、燃料として燃やすためでございます。 鯨油というのは、比較的安価で大量に取れ、燃やしても悪臭や煙の出ない、とってもエコな燃料なのでございます。 こうして捕鯨船が持ち帰った鯨油は、蒸気機関車に乗せられてオスマン帝国のすみずみまで運ばれ、工場や家庭で蒸気機関を動かすのです。 いわば、鯨油はオスマン帝国を巡る血液、そして捕鯨船はそれを送り出す心臓です。 ハーマンが捕鯨船に乗ったのは、世界に覇を唱える蒸気帝国の心臓を見たかったからでございます。 さて、工業改革というのには、通常、農業改革が先だって行われるものです。 と言いますのも、車を作る仕事ができたからといって、そこで働く人間が降って湧くわけではないからです。 小麦を作っていた人が、小麦を作るのを辞めて車を作る仕事を始めるわけです。 小麦を作る人が減ってしまうと、当然ながら小麦が足りなくなって、みな、飢えてしまいます。 ですから、小麦を作る人が減っても、みなが飢えずにすむだけの小麦を作れるよう、農業改革が先に必要なのでございます。 ところが、蒸気の力によって工業大国となったオスマン帝国ですが、畑がほとんどありません。 もともと砂漠や山が多くて、畑にできる土地が少ないのです。 そして何より、水があって、平らで畑に向いている土地というのは、工場にも向いているのです。 工場で働いた方がお金が稼げるので、畑は買い取られて工場にされてしまいました。 では、国民は飢えてしまうのでしょうか? ふふっ。心配はご無用。簡単な話でございます。 工場で働いた方が儲かるのですから、小麦は他の国に作らせて、それを輸入すればいいだけです。 なんともまあ、賢い解決策でございましょう。 さあ、このお話は偉大なる蒸気帝国の物語。 一度、火を付けてしまった蒸気機関は、燃料を燃やし尽くすまで止まりません。 発展と生存を続けるために鯨を狩る、アラビアン・スチームパンクでございます。ふふっ。 (あくび)ふわぁ、ちょうどキリもつきましたし、今日のお話はここまでにいたしましょうか。 <左 近い ささやき> 明日のお話は、もっと、面白いですわよ。ふふっ。 〇第十夜 <左 普通> ようやく全ての解体作業が終わったのは、東の空も白みだした頃でした。 そんなに時間がかかった理由は2つ。 1つは、子鯨を含むとはいえ、1度に3頭も取れたから。 もう1つは、鯨の解体は初めてという船員が多く、作業に手間取ったからです。 そのようなわけで、昼過ぎに始まった解体作業は、鯨油ランプの灯りのもと、夜を徹して行われたのです。 ハーマンは、ようやく自分のハンモックによじ登ると、気絶するようにストンと眠りに落ちました。 目が覚めたのは、うまそうな臭いに鼻先をくすぐられての事です。 起き抜けに、腹がぐーと不平を漏らします。 ハッチからの日の差し具合を見るに、昼も近い時間のようです。 思い返してみると、昨日は鯨を取って解体と忙しく、ろくに休憩すらありませんでした。 最後に食事を取ったのは昨日の朝。丸一日、食事を抜いている計算になります。 ふぁ〜あと、大きなあくびを1つ。 厨房に食事を取りに行く事にしました。 厨房に着くと、コックが大きな寸胴鍋でスープを煮ておりました。 「ごくろうさん。今日は好きなだけ肉を食えるぞ。もうすぐできるから、他の奴も起こしてやってくれ」 スープの中には、肉がゴロゴロとこれでもかとばかりに入っております。 眠気が食欲に押しのけられ、ハーマンは目を見開きます。 長期間になる船旅では、肉といえば保存食のパサパサと堅くてしょっぱい塩漬け肉です。 こんなにジューシーで柔らかそうな肉を食べるなど久しぶりです。 いったいどこでこんな新鮮な肉を、と考えたところで肉の正体に気付いてしまいました。 なぜなら、新鮮な肉を手に入れる機会など一度しか無かったからです。 はい、昨日取ったマッコウ鯨でございます。 ハーマンは、マッコウ鯨を解体した時に広がった、吐き気をもよおす悪臭を思い出しました。 それが顔に出たのか、コックがふんっと鼻を鳴らします。 「文句があるなら、船長と同じ特別メニューを出してやるぞ」 「えっ」と、ハーマンは身を乗り出します。 こんな立派な船を持っている大金持ちの船長です、いったいどんな豪勢な料理を食べているのでしょうか。 「ああ、好きなだけくれてやるよ。なんたって、食い切れないほどあるんだ、お前さんも間近で見ただろう、もともとお前さん2人分くらいの大きさがあるんだ」 そう言ってコックは、調理台に一抱えもある物をドカッと下ろし、ハーマンの前で包んでいた油紙【あぶらがみ】を広げて見せました。 「鯨の心臓のステーキだ。ベリーレアのな。あごが外れるくらい分厚いやつを焼いてやるよ。遠慮しなくていい。どうせ大半は食う前に痛んで捨てちまうんだ」 コックは、なまめかしい赤色をした肉塊に包丁を入れるそぶりをしてみせます。 2人分というのは、ハーマンの2食分という意味でなく、ハーマンの体重の2倍という意味でした。 数十トンにもなる巨体に血液を送り出す鯨の心臓は、100キロを超える大きさがあるのです。 コックは、ハーマンをじっとりとにらみつけます。 ハーマンは「い、いやー、ご遠慮いたしますー」と手を振って、たじたじと後ずさりました。 「ふん、なら文句を言わずに食うんだな。なに、普通の人間にはこっちの方がいい。舌べらと尻尾の肉だ、鯨の肉で一番うまいぞ。しっかり血抜きもして、臭みも取ってあるから安心しろ」 そう言って、スープをなみなみと器によそい、スプーンといつもの堅パン【かたぱん】を添えて差し出します。 「ははは、おいしい料理をいつもありがとうございまーす」 ハーマンは、乾いた笑いでそれを受け取り、船室の仲間に「おーい、メシができてるぞー」と一声かけて、甲板に出ました。 船室は、臭くてジメジメしているので天気のよい日はこうして、外に出て食事を取るのです。 甲板は、昨日の解体作業で鯨の油を吸って、ところどころ黒ずんでおりました。 ハーマンは、汚れた所をよけて、きれいな場所に腰を下ろします。 堅パンをスープに浸し、鯨の肉を1つ、恐る恐る口に運びます。 脂がのっていてやわらかく、しっかり旨味があります。 ショウガのよく効いたスープが脂のしつこさを抑え、玉ねぎが深みのある味わいを加え、クミンやベイリーフが臭みを消して爽やかな後味を残します。 一口食べると、空腹も手伝ってガツガツとかき込みました。 スープの染みた堅パンも香ばしさと小麦の甘みがあって、これがなかなかおいしい事。 堅パンというのは、乾パンよりも更に堅い保存用のパン、と言いますかビスケットです。 保存性と味はよいのですが、あまりの堅さに「鉄板」、「凶器」、「歯が折れる」、「胸ポケットに堅パンを入れてなかったら死んでたぜ」などと様々な悪評のある代物でございます。 そのままでは堅すぎるので、こうしてスープなどに浸し、やわらかくしてから食べるのです。 「いやー、うまかったー」 ハーマンは、満足そうに腹をさすります。 西洋の船と違って、アラビアの船では酒は出ませんが、食事がうまいのは気に入っておりました。 初めは慣れない香辛料に味覚が戸惑っていたものの、数日もすると料理の臭みを消してくれるありがたさに気付くようになりました。 今では、辛味のあるショウガも好きな味です。 ショウガは、船に持ち込まれた鉢で育てられており、毎日1食はショウガを使ったメニューが出されます。 これは、知恵の館の碩学による指示という事で、なんでも船乗りの病気を防いでくれるのだそうです。 それに、酒は出なくても、代わりのお楽しみがあります。 厨房に食器を返しに行くと、アラビックコーヒーをもらえるのです。 これが、船員たちに酒に代わる気晴らしを提供しておりました。 おいしいコーヒーのおかげで食器の返却率もよく、コックとしても助かっております。 まあ、ワイン好きのハーマンとしては少々もの足りなさを覚えないでもありません。 しかし、イスラーム圏では、ワインはご法度。高望みがすぎるでしょう。 むしろ、酔っぱらった船員が問題を起こす事が無いので、上手くできたシステムだと感心します。 そんな事を考えながら、厨房で食後のコーヒーをすすっていると、スターバックが近づいてきました。 「おお、ハーマン。ちょうどよかった、船長がお呼びだ。船長室に来るようにとの事だ」 ハーマンは、「俺をですか?」と不安げに自分を指差します。 「心配しなくていい。例の鯨を発見した報酬の件だ。まぁ、ただ、その……船長の、趣味は気にするな」 「趣味?」 ハーマンは首をひねるも、スターバックは言葉をにごして行ってしまいました。 怪訝に思いながらも、第二甲板の後ろにある船長室の扉をノックします。 「誰だ?」 部屋の中からシンドバードの声が返ってきます。 「船長、ハーマンです」 緊張に、少々声が上擦ってしまいました。 「よし、入れ」 ハーマンが扉を開けると、シンドバードは壁に掛けられた帯状の物を引っ張って、その上に手にした何かを滑らせておりました。 部屋の左右の壁には、白くて湾曲した物が何本も柱のように並んでおります。 はて、どこかで見た事があるような、それも最近。 ハーマンは、その正体に気付いてギョッとしました。 鯨の肋骨です。 鯨の骨をインテリアにするというのは、そう珍しい事ではありません。 港の食堂にも、鯨の下あごが飾ってあったり、土産物としてマッコウクジラの歯に彫刻したスクリームショーや、歯から削りだした置物も人気です。 ピルム号の船員でも、そういった内職をしている者がいて、手先の器用さに感心したものです。 しかし、この部屋はどうでしょう。 船長室と言ってもスペースの貴重な船です。大した広さはございません。 その狭さもあって、まるで鯨の腹の中にいるようで落ち着きません。 壁に掛けられたマスケット銃のストックまでも白。 恐らくは、義足と同じくマッコウ鯨の下あごの骨から削りだした物でしょう。 いったいどのような精神がこんな部屋を作るのでしょうか。 ハーマンが圧倒されていると、シンドバードは動かしていた手を止め、手にした物をまじまじと見つめます。 帯状の物の上を滑らせていたのは銛の穂先でした。 クィークェグも立派な銛を持っているのですが、それに劣らぬほどの大きさです。 そして、なんと言いますか、実用的とは言い難い、禍々しい物を感じるのです。 過剰なまでに大きく反ったかえりは、一度刺さればどんな獲物も離さないという執念を感じさせます。 シンドバードは、その銛の刃に対して垂直に親指を滑らせます。 こうしてゾリゾリと指紋にひっかかる感触で、刃の砥ぎ具合を見るのです。 ハーマンは、シンドバードが何をしていたのか理解しました。 ピンッと張った革で、銛の刃を砥いでいたのです。 しかし、普通、銛は砥石で砥ぐ物で、革で砥ぐなど聞いた事がありません。 革で砥ぐのは、カミソリのように非常に鋭い切れ味が求められる刃物くらいのものです。 銛に鋭すぎる刃付けをしては、何度も使わないうちにダメになってしまいます。 道具というものは、目的があって作られます。 はたして、この銛はどんな獲物に投げられる事を目的として作られたのでしょうか? そして、砥ぐのに使う革には馬の物などが用いられるのが普通ですが、あの黒い革はおそらくマッコウ鯨の物でございましょう。 呪術的な悪意まで感じられ、ハーマンは背筋が寒くなりました。 銛の刃に滑らせていたシンドバードの指先が、ピクリと止まりました。 シンドバードは、指先から一筋、血がにじむのを見て、その刃の鋭さに満足そうにクククッと喉を鳴らしました。 その銛の穂先を、宝石でもしまうかのように箱に納めると、ようやくハーマンに向き直りました。 縦に傷の入った左目で、ハーマンを見据えます。 ハーマンは、ゴクリとツバを飲みました。 「取ったのは、マッコウ鯨のメスが2頭、子鯨が1頭だったな。銀貨35ディルハム、というのが既定の報酬だ」 シンドバードは、言葉を返せぬハーマンに向かって続けます。 「だが、その鯨は腹に龍涎香を抱えておった。それに、スターバックからもお前には見込みがあると聞いておる。そこでだ」 シンドバードは、革袋をひっくり返し、机の上に銀貨をジャラジャラと広げて見せました。 「初めに言ったように75ディルハム出そう」 「あ、ありがとうございます」 ハーマンは、革袋に大量の銀貨を詰め直して、そそくさと船長室を出ようとします。 ヒラ水夫の船室の方が、1人当たりの空間はずっと狭いのですが、この船長室は非常に圧迫感を感じるのです。 「失礼しました」と部屋を出ようとするハーマンの背に掛けられたシンドバードの言葉が耳に残りました。 <右 近い ささやき> 「次も期待しているぞ、次も、な」ふふっ。 <左 普通> ハーマンは、開けた甲板に出て、 <左 近い> スゥ〜〜〜〜。 ハァ〜〜〜〜。 <左 普通> と、大きく深呼吸をします。 そうして、ようやく人心地つきました。 と、甲板では、船員たちがいくつかのグループに分かれて遅れ気味の昼食をとっておりました。 こうした捕鯨船では、船員は多国籍、他民族となります。 ですから、同じ言語で気心も知れた同じ民族同士でグループを作るのが普通です。 ハーマンも、ミズンマストの左側、いつものグループの輪に向かいます。 アラビア船という事もあって、人気のある船の前方から、トルコ人やアラブ人、クルド人らが、それに次いで、ギリシア人、セルビア人、アジア人らが陣取っておりました。 ハーマンの出身、北の辺境スコットランドともなると、ユダヤ人や黒人らと一緒に船の後方です。 とは言っても、緩い慣習のようなもので、それで差別を受けるわけではありません。 先にも申しましたが、海に放り出されては人は生きていけません。 他のグループの者であっても、同じ船の船員同士という強い紐帯【ちゅうたい】で結ばれておりました。 それに、ハーマンは船の後方でスクリューが作り出す渦を、ボーっと眺めるのが嫌いではありませんでした。 ハーマンは「よう」と手をあげて近づくと、いつものグループの中に1人姿が見えない事に気付きました。 「ピップの奴、また水タバコをせがみに行ってんのか?」 ピップと言うのは、前にシンドバード船長の噂話をしていた黒人の少年です。 水タバコがたいそう気に入ったらしく、たびたびアラビア系のグループに遊びに行くのです。 なかなかのお調子者で、持ち前の陽気さで物怖じせずに他のグループの輪に混じり、水タバコのご相伴にあずかるのです。 水タバコの煙を、姿が隠れるほどぶわぁーと大量に吐きだすのに目を輝かせたり、ドーナッツ状に煙を吹いては上手くできたと笑う無邪気さの持ち主で、どこでも可愛がられるのは才能と言えました。 ピップの姿を探すのですが、船首の方にも彼の黒い肌は見えません。 「なんだ、あいつまだ寝てるのか」 ハーマンが肩をすくめるも、みなは無言で手元のスープに視線を落とします。 「おい、どうしたんだ、みんな堅パンで歯をやっちまったか?」 ハーマンの軽口に、ぼそりと声が返ってきます。 「死んだよ」 「えっ?」 ハーマンには、その言葉の意味が理解できませんでした。 「2番ボートに乗っててな、鯨に近づいたところで槍をつかんで立ち上がったらしい。 活躍すれば金をもらえると思ったんだろうな。 航海士や銛撃ちが止める間もなかったそうだ。 槍で突かれた鯨が暴れて、手を離さなかったもんだから、そのまま海に投げ出されたって話だ。 それで、海面に顔を出したところを尻尾で一撃。 なんとか鯨を仕留めた後に救出したが、その時ボートのへりでぶつけた頭がへこんだまま戻らない。 鯨の尻尾で頭の骨を粉々にされちまったんだろうな。 取った鯨の解体も急がなきゃならないんでな、お前たちを拾う前に、あいつの使ってたシーツで包んで海に流したよ」 ハーマンは、ふらりと膝をつきました。 古株の船員たちは、彼の死を惜しむも、後には引きずりませんでした。 慣れているのです、捕鯨船での死は珍しくありません。 病気で死ぬ者もあれば、崩れた積み荷の下敷きになったり、マストから落ちて死ぬ者もおります。 そして、彼らが挑む相手は地球上最大の生物、鯨でございます。 体の大きさは強さに直結します。 陸上で最も強い動物とされるのがアフリカゾウ、その体重は10トンほどにもなります。 とても人間が素手で敵う相手ではありません。 まとめてなぎ倒されてしまう光景は容易に想像がつくでしょう。 しかし、海に目を向ければゾウなど赤子のようなもの。 鯨は、その数倍も、種類によっては10倍以上も体が大きいのです。 旧約聖書の海の怪物、レヴィアタンにたとえられるのもうなづける巨獣でございます。 当然、そのような化物に挑んで無傷、というのは虫のいい話でございましょう。 ピップの代わりの人員は、サイパンに寄港した折に補充され、ピルム号は鯨を追い続けるのでした まるで鯨と、そして人をかみ砕く、レヴィアタンを喰らうレヴィアタン。 ピルム号の欄干に並べられたマッコウ鯨の歯を見て、ハーマンはそう考えるのでした。 さて、ピップの死を知ってから、ハーマンは眠れぬ夜には甲板に出るようになりました。 そうして、目をつむり、ざざ〜ん、ざざ〜んという波音に耳を澄ませるのです。 涼しい夜風にあたり波音を聞いていれば、胸の内にわだかまっていた想いも洗い流されるように感じられるからです。 そんなハーマンの耳に、波の音ではない音、例のあの音が聞こえてきます。 <左 近い ささやき> カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 近い ささやき> カツン。 <右 近い ささやき> コツン。 <左 普通> 生身の脚と、鯨骨と鋼の蒸気義足の音。 シンドバード船長です。 シンドバードは、舳先に立つと円盤状の物を取り出し空を見上げました。 この円盤はアストロラーベという道具で、太陽や星の位置を見るのに使われ、そこから現在の緯度とその地点での現在時刻を割りだす事ができます。 その情報と、離れた所での時刻が分かれば、2点間の時差も分かります。 時差というのは東西にどれだけ離れているかで決まるものですので、経度を求める事ができます。 ですので、アストロラーベで星を見れば、現在の緯度と経度が分かるのです。 ペルシャ湾を出航する際に、マッカ標準時に時計を合わせたのはこのためです。 言わば中世のGPSでございます。 特にイスラームは、この技術に優れておりました。 イスラームでは1日5回、マッカに向かっての礼拝が義務付けられていたからです。 ですから、旅先でもマッカの方角を知る必要性もあって、天文学や数学が発達したのでございます。 現在もなお世界中の人々を魅了する、イスラームの美しい幾何学文様やアラベスク文様も、そのように高度に発達した数学から生まれたものなのです。 幾何学文様は、コンパスの針の1点から始まり、円を描き、次はその円周上の1点にコンパスの針を置いて、と円を規則的に重ねていく事でパターンを作ります。 そのパターンは、更に外側の円周上にコンパスの針を置いてと繰り返す事で同じパターンをどこまでも広げる事ができるのです。 偶像崇拝を禁じられたイスラームは、このようにして、美しく、調和のとれた、無限に広がる天上の世界を表現したのでございます。 <右 近い ささやき> その完璧なる天上の世界の下、ハーマンがのぞき込む海は、暗く、不規則な波がどこまでも続くようで。 ざざ〜ん、ざざ〜んと、幽明【ゆうめい】の境から手招きするかのような潮騒【しおさい】に。 ハーマンの視線は、その闇色の深みへと誘われて。ふふっ。 体が軽くなり、欄干をふわりと、 <左 普通> がしり、とハーマンの肩がつかまれました。 「夜の海には気を付けろ。のぞき込むと魂を持って行かれるぞ」 ハーマンは、意識を取り戻します。 背後に立っていたのはシンドバードでした。 「とりわけこの海はな。なにせ奴がいる」 「奴とは?」 聞き返すハーマンに、シンドバードは喰らいつくように牙をむいてその名を言いました。 「白鯨だ」 白鯨、それはこの船で時折、耳にした名前。スターバックが、腫れ物のように扱っていた名前でした。 ハーマンは、ゴクリとつばを飲みます。 「船長、白鯨とは?」 「白鯨は、傲慢そのもの、怒りそのものだ。ねじれた渦だ。海中にそびえる山脈だ。蒸気文明を憎むものだ。真なるレヴィアタンだ」 シンドバードは、熱に浮かされたように続けます。 「ワシには分かるッ! この顔の傷を付けたのは奴だッ! この左脚を喰ったのは奴だッ! 奴の体の一部はワシだッ! そして、奴の背には今もワシの銛が刺さっておるッ! 分かるッ! 分かるぞッ! ワシには分かるッ! 奴にも分かっておるッ! 奴は近いッ! ワシは近いッ! 白鯨よ、ワシは戻ってきたぞッ!」 哄笑を上げるシンドバードに、ハーマンはただただ圧倒されるのでした。 次の日、その言葉は現実となりました。 無数の銛と槍の林を背負い、それが泳いだ後には海が逆巻き白髪【しらが】のような引き波を残す。 小さな島と見まごう背中は、海中に潜むものの巨大さを容易に想像させます。 全身をまだらに覆う白い傷跡は、むき出しの闘争心の証。 その圧倒的な存在感は、まさしく神の作りし旧約聖書の怪物、レヴィアタン。 卑小な人間を見下すように高々と潮を吹き上げる、それは、 「白鯨よ、久しいなッ! この時を待っておったぞッ! さあ、ボイラーに火を入れろッ!」 シンドバードの号令に、ピルム号が蒸気機関のうなりを上げるのでした。 というところで、夜もすっかり更けてしまいましたので今日のお話はここまでにいたしましょうか。 いよいよ物語も佳境でございます。 <左 近い ささやき> 明日のお話は、も〜っと、面白いですわよ。ふふっ。 〇第十一夜 <左 普通> 「捕鯨ボートに乗り込め、ワシも出るぞッ!」 そう言って例の銛を手に、船の後方に吊るされた捕鯨ボートに向かうシンドバードを止める声がありました。 「船長、お待ちをッ!」 ハッチを登って現れたのはスターバックでした。 手には白いストックのマスケット銃を握っております。 「スターバックよ、それはワシの銃だな。それでワシを撃って止めるつもりか?」 シンドバードの声が低くなります。 「いいえ、こうするのです」 スターバックは右手で銃身を持ち、銃把【じゅうは】をシンドバードに向けて差し出しました。 「船長、私は白鯨と出会わずにすむ事を願っておりました。 ええ、無事にアラビアに戻る船の方がずっと多いのですから。 ですが、船長。どうやらあなたは、白鯨と再びまみえる天命にあったようです。 しかし、今ならまだ間に合います、全力で逃げればあるいは……。 白鯨と戦った船の末路は、あなたが一番ご存じでしょう。 もし白鯨を倒せたとしても、取れる油は普通の鯨3頭分程度でしょう。 どれだけ大きかろうと、白かろうと鯨は鯨。 白鯨の油だからと、特別高い値がつくわけでもありません。 ならば、他の鯨を3頭狩ればよいではないですか。 船長、あなたの理性にかけます。 どうしても白鯨に挑むというなら、私を撃ってからにしてください」 スターバックは、銃口を自らの胸に押し当てました。 額に玉のような汗を浮かべ、まばたきもせずシンドバードをにらみます。 船の上の空気が張りつめます。 シンドバードは、ためらいなく銃把を握りました。 そして、カンッと火打ち石が落ちる音と、一瞬遅れてパシューという轟音。 クククッ、とシンドバードが喉を鳴らしました。 「やはり装填されておったか。そうだ、その通りだ。引き金を引いたら弾が出るからこそ脅しになる」 スターバックは、目を見開いて立っておりました。 シンドバードは、天に向けた銃口を下ろします。 「スターバックよ、それでいい、そのためにお前を一等航海士に選んだのだ。 お前は、ワシの外付けの理性だ。 まともな人間ならばこう考えるであろう、白鯨には関わるべきではないと」 シンドバードは言葉を区切って、凍りついたように固まる船員たちを見渡します。 「みなも見たであろう、白鯨の背に生えた銛と槍の林を。 あれは墓標だ。船乗りの墓標だ。 白鯨が生き続ける限り、墓標は増え続ける。 蒸気帝国の繁栄の影でな。 誰かが奴を倒さねばならぬ。 人を束ねるのは理性だ。 だが、理性だけでは奴は倒せぬ。 奴に挑むには狂気が必要だ。 ワシは狂気だ。 そして狂気はこの船を作った。 ピルム号は、引き金を引けば火を吹く銃だ。 見ろ、白鯨はまっすぐこちらへ来るぞ。退路は無いぞ。 さあ、みなどもよ、覚悟を決めろ、狂気に染まれ。 報酬は、ディナール金貨で支払おう。 勝て。あの墓標の無念を晴らせッ!」 初めは命知らずの銛撃ちどもから、次いで古株の船員と歓声は波紋のように広がり、狂気の熱がピルム号を包みます。 「スターバックよ、理性はこの船に置いていく。ピルム号を頼んだぞ」 シンドバードが、マスケット銃を差し出します。 スターバックは、一瞬身をこわばらせ、それを受け取りました。 「船長……インシャー・アッラー、ご武運を」 スターバックの声を背に聞いて、シンドバードは手にした銛をかかげてみせました。 スターバックの1番ボートを残し、2番、3番、そしてシンドバードの4番ボートが海に下ろされます。 スクリューがボートの軌跡を描き、散開しつつ白鯨に迫ります。 シンドバードの4番ボートが、白鯨を正面から迎える形になりました。 「フェダラー、面舵一杯【おもかじいっぱい】。側面を取るぞッ!」 4番ボートの3人が、船べりをつかんで体重をボートの右側にかけます。 あわや正面衝突というところを、華麗なターンで白鯨の側面を取ると、シンドバードが銛を手に立ち上がりました。 「一番銛、もらったぁーッ!」 シンドバードの鯨骨と鋼の左脚が蒸気を噴き出し、ボートの底を踏み抜かんがばかりに蹴りつけます。 その勢いを乗せて、投げられた銛はまっすぐ突き進み、白鯨の背のコブを捕えました。 白鯨は、身をよじらせます。 「ハハハッ、どうだ、前よりも深く刺してやったぞ。うぉっ!」 不安定な捕鯨ボートの上では、蒸気の力を御しきれず、シンドバードはバランスを崩してしまいます。 海に落ちそうになった、シンドバードの手をフェダラーと呼ばれた中国人がつかんで引き戻します。 その時です、宙に浮いた銛綱がフェダラーの首にくるりと巻き付きました。 銛綱は白鯨の巨体に引かれ、次の瞬間には、フェダラーの姿は海中に没してしまいました。 「フェダラーッ!」 シンドバードが、ボートから身を乗り出して海をのぞき込むもその影すら見えません。 尾を立てて潜った白鯨に、海の深くへと引きずり込まれたのです。 白鯨は、潜ったまま姿を見せません。見えるのはただ、波ばかり。 「船長、白鯨は逃げたんですかッ?」 助手が尋ねます。 「いや、逃げてはおらん。銛綱はたるんでおる」 白鯨がボートから離れているならば、銛綱は引っ張られてピンと張るはずです。 つかんだボートの船べりがビリビリと震えるのを感じました。 白鯨の声でボートが震えているのです。 近い。どこだ? 周囲に目をやるのですが、白い影は見えません。 どこだ、どこにいる? その時、なにやらピルム号からスターバックが叫んでいるのが聞こえました。 なんだ、なんと言っている? 「下ですッ!」 その言葉が聞こえた時には、すでに時遅し。 4番ボートのまわりが白に染まったかと思うと、真下から白鯨が飛び出しました。 ボートはひっくり返り、シンドバードたちは海に投げ出されます。 ハーマンは、一部始終をピルム号から見ておりました。 ムスリムの男性が被るクーフィーヤのように、水しぶきを大きな額のコブにまとって現れたそれ。 全長28メートル、体重170トンという、規格外の巨体を尾の先まで海上に見せた白鯨。 その偉容を見せつけるかのような一瞬の静止ののち、氷山が崩れ落ちるがごとき雄大さで背中から転覆したボートの上に倒れ込みました。 木端微塵となったボートの破片が、巨体が巻き起こした大波に乗って広がりました。 「いかん、クィークェグ、ハーマン。船長を救出しろ。あの蒸気の脚では泳げん。1番ボートを使えッ!」 スターバックの指示に、ハーマンとクィークェグはうなづき合って、1番ボートに走りました。 ハーマンたちが救出に向かっている最中、2番ボートと3番ボートは左右から挟みこむ形で白鯨に迫ります。 先に2番ボート、続いて3番ボートから銛が飛び、白鯨の背に刺さりました。 すると、白鯨は急旋回する動きを見せます。 「まずい、早く舳先を奴に向けるんだッ!」 二等航海士がとっさに舵を切るも間に合わず、限界を超える角度を描いた銛綱は、ボートの舳先に彫られた溝を外れました。 ボートというのは、細長い形をしております。 長い方向、つまりボートの正面からの力には強いのですが、短い方向である側面からの力には弱いのです。 ボートの側面から白鯨に引っ張られて、2番ボートはたちまち転覆しました。 2番ボートを沈めると、白鯨は、傷だらけの尾を海面に高く上げ、まっすぐに潜っていきました。 3番ボートから伸びる銛綱は、真下に伸びる形となります。 この角度では、ボートが鯨の力をまともに受けてしまいます。 三等航海士が、銛綱を切ろうと斧を振り上げたのと同時に、3番ボートの後ろがふわりと浮き上がりました。 そのまま3番ボートは、縦に回転し海面に叩きつけられます。 この白鯨、明らかに人間相手に戦い慣れております。 鯨とは知能が高い生き物だとは申しますが、これほどとは。 ハーマンとクィークェグが、4番ボートの破片にかろうじてしがみ付いていたシンドバードを1番ボートに引き上げた時です。 頬に生暖かい水しぶきを感じました、遅れて生臭いにおい。 高々と吹き上がる潮。そしてもう1度、同じ方角により大きく。 白鯨が、こちらに向かってきているのです。 ハーマンの歯が、カタカタと鳴りました。 そのハーマンの肩を、大きな手がポンと叩きます。 「ハーマン。生きろ」 クィークェグは、白い歯を見せてニッと笑い、綱桶を海に投げ捨てると、銛をつかんで間近に現れた白鯨に飛び掛かりました。 体重を乗せて白鯨の背に深々と銛を刺し、振り落とされまいと、銛綱を自分の体に巻き付け、銛をさらに深く白鯨の背に押し込みます。 さすがの白鯨も身をひねり、飛び跳ねるのですが、クィークェグは銛を放しません。 さらにさらに深く押し込むのです。 白鯨は、尾を高く上げて、水中に潜りました。 いくら暴れても、クィークェグは銛を放さないと判断したのでしょう。 クィークェグを窒息死、いえ、深海の水圧で圧死させるつもりなのです。 「クィークェグッ!」 ハーマンは、船べりから身を乗り出して海面をのぞきます。 海に飛び込まんがばかりです。 「よせ、あやつが作った時間を無駄にするな」 シンドバードは、ハーマンの肩をつかんで船底に引きずり倒すと、ボートの舳先をピルム号に向けました。 「見事だ。クィークェグ」 シンドバードのつぶやきが、嗚咽するハーマンの耳に入りました。 ピルム号が1番ボートを回収すると、潮の流れと反対向きに全速力でこの海域を離れる事になりました。 通常、鯨は潮の流れに沿って泳ぐからです。 当然ながら、これはスターバックの判断です。 さすがのシンドバードでも、この惨敗では、その判断に口を挟めません。 ですが、シンドバードはこう言ったのです。 「白鯨は、必ず追いかけてくるぞ」と。 船員たちは、凍りつきました。 こと白鯨に関してはシンドバードの予想は当たると、みな確信めいたものがありました。 シンドバードは続けます、 「白鯨は、戦いの傷を癒すために今頃、暴食しておる。だが、腹を満たせば必ずまた来る。倒さねば我々は生きて帰れぬぞ」と。 白鯨は、クィークェグを道連れに潜ってから姿を現しておりません。 マッコウ鯨は、2000メートルの深海まで潜り、40分から1時間も狩りを続けます。 あの巨体を誇る白鯨でしたら、おそらくもっと長くむさぼり続けるでしょう。 つまり、シンドバードの予想が正しいならば、1時間ほどで戦う準備を整えねばなりません。 「しかし、戦うにしてもボートが1艘では……」 スターバックの言葉に、シンドバードがニヤリと笑みを返します。 「ああ、そうだとも。奴におあつらえ向きのボートがまだ1艘残っておる」 そう言って、鯨骨と鋼の義足で全長30メートルのピルム号の甲板をドンッと踏み鳴らすのでした。 「ワシに案がある。弓だ。ワシは、ゾウだって弓で仕留めた事がある」 弓でゾウを倒したという話には驚きましたが、スターバックの反応は冷ややかでした。 「しかし、あの白鯨は何本矢を撃ち込んでも倒せるとは思えません。 現に、矢よりもよほど大きな銛や槍が、何本も突き立っているのにピンピンしているのですから」 その反応に、シンドバードは歯をむき出して笑うのです。 「そうだとも、だから奴でも倒せる弓を用意すると言っておるのだ」と。 かくして、シンドバードの立案で、船大工の指揮のもと工事が始まりました。 トンカンと、工事の音が響く中、ハーマンはいまだクィークェグの死のショックで、甲板から立ち上がれずにいました。 「ほら、これを飲め」 うつむくハーマンに声がかかりました。 目線だけ上げると、スターバックが両手にカップを持っておりました。 差し出されたそれは、黒くてかぐわしい香りの飲み物、コーヒーでした。 ただ、普段飲むコーヒーと違って、コーヒーの粉やカルダモンが浮いておりません。 それに、いつものコーヒーはこんなに香り高かったでしょうか? 「……ありがとうございます」 ためらいがちに受け取って口を付けると。 「にがッ!」と、とてつもない苦さでございました。ふふっ。 「ハハハッ、苦いが美味いだろう」 顔をしかめるハーマンを、スターバックが笑います。 「どれ、ワシにも1杯もらえるか?」 その様子を見てシンドバードもやって来ました。 「どうぞ」と差し出されたカップを受け取り、薄く口を付けてすすります。 「確かに苦い。苦いが、美味い。気が引き締まる味だ。これは、どうやって煮出した?」 「挽いた豆を、蒸気の力で煮出したんです。 実は、この船旅の配当を元手に新大陸でコーヒーハウスを開くのが夢でしてね。 その店の看板商品を、この船で色々考えていたのですよ。 船長のお墨付きをいただけたようなら嬉しいです」 スターバックは、照れくさそうに言います。 「だがな、スターバックよ。こんな時に飲むならいいが、この苦さでは普段飲むには砂糖でも入れた方がいいぞ」 「俺はミルクと一緒に飲みたいです……」とこちらは、ハーマンの感想。 2人の反応に、「あっ、そのアイデアいいですねッ!」とスターバックは無邪気に笑うのでした。 さて、白鯨を迎撃する準備が整い、各人が配置に着きました。 船尾には、巨大な弓が据え付けられております。 樽に使うオーク材の板に、帆を張るためのロープを弦【つる】にした急ごしらえの物です。 それで、ひと抱えもある巨大な銛を撃ち出すのでございます。 銛にはロープが結ばれ、ピルム号に繋がれておりました。 この巨大な弓で、白鯨を撃とうというのです。 確かに、この銛ならば白鯨とて倒せるかもしれません。 ただし、銛が当たればの話でございます。 この作戦が告げられた際、スターバックが異を唱えておりました。 実は既に、知恵の館の碩学の発明には、捕鯨船から鯨に銛を撃つバリスタがあるのです。 ですが、実用に至っていないのには理由がございます。 当たらないのです。 泳いでいる鯨に当てるには、鯨が泳ぐよりも早くバリスタを動かすか、射線に入るよう船を回り込ませるかして、鯨に照準を合わせねばなりません。 しかし、バリスタは重すぎてそんなに簡単に向きを変えられませんし、船の性能も鯨が泳ぐ速度に追いつくのがせいぜいです。 ですから、小回りの利く捕鯨ボートに乗って、手で銛を投げているわけです。 その反論に、シンドバードは自信たっぷりに答えました。 「確かにその通り。白鯨に照準を合わせるのは無理だ。だが、白鯨の方から射線に入るようにすればいい」と。 「そんな都合のいい事が」という当然の反応に、シンドバードはドンッと胸を叩き「ワシがおとりになれば奴は必ず来る」と明々白々だとばかりに言います。 穴のある作戦とはいえ、他に手の打ちようもありませんので、その案に従う事になりました。 そのようなわけで、弓の射線上には、シンドバードが乗る1番ボートがピルム号からロープで引かれておりました。 そして、海面に高々と潮が上がりました。 まだらな白い肌、背には銛と槍の林。白鯨です。 「弓を引けッ!」 スターバックの命令でレバーが操作され、脂身を引き上げる際に使うフックが蒸気の力で弓を引き絞ります。 弓が大きくしなり、ギシギシときしみました。 「できればご遠慮願いたかったが、まったく、船長の予想は当たるもんだなッ!」 スターバックが憎々しげに言います。 「さあ、白鯨よ。決着をつけようか」 ボートでは、シンドバードが槍を手に、鯨骨と鋼の脚で立ち上がりました。 思えば、初めての船旅で島と間違え鯨の背に上陸して以来、鯨とは縁のある人生でした。 シンドバードは、自嘲的に笑みを浮かべます。 白鯨は、それが最短距離をたどった結果なのか、はたまた本当にシンドバードを狙ったのか、船の後方からまっすぐ向かってきます。 「いまいましいあの巨体が今ばかりは逆にありがたい。あれだけ的がデカいと、外す方が難しい」 スターバックが、唇を舐めました。 そして、白鯨がシンドバードを捉えようとしたその時。 「切れッ!」 スターバックの指示が飛びます。 「クィークェグのかたきだッ!」 その指示と寸分違わず、ハーマンが弓の弦とフックを繋いだロープに斧を振り下ろしました。 人ならざる蒸気の力で引き絞られた弦が解放され、猛烈な勢いで銛を放ちます。 あまりの反動に、急ごしらえの弓が弾けて飛びました。 銛は唸りを上げて、白鯨の背にドスンッと突き立ちました。 その威力に、白鯨がのたうち回ります。 その隙をのがすようなシンドバードではありませんでした。 「もらったぞッ!」 鯨骨と鋼の脚が蒸気を吹き、シンドバードが高く飛びあがります。 そのまま体重を乗せて、白鯨の尻尾の付け根に槍を突き刺しました。 そこは、鯨の急所でした。 鯨の巨体を動かすための力を尻尾に与えるように、太い動脈が皮膚の近くを通る場所でございます。 ハーマンの目には、その雄姿がかつてあこがれた騎士物語のように映りました。 まるで、竜殺しの聖人、ゲオルギウス。 あるいは、その騎士物語をも超えるとさえ思えたのかもしれません。 なにせ、挑む敵は自然哲学の発達によってドラゴンの存在が空想の領域に追いやられても、なおも現実にとどまり続けたレヴィアタンです。 白鯨が苦しげにもがきます。 尾が立てる波が赤く染まります。血です。 この量は、シンドバードの槍が太い動脈を切り裂いたのでしょう。 弓から撃ち出した銛が刺さった所からも、血があふれているのが分かります。 シンドバードは、傷口を広げるように槍の穂先でえぐりにかかります。 白鯨が、シンドバードを振り落とそうと尾を振ります。 シンドバードは、槍にしがみ付くも、槍というのは深く突き刺す事を目的とした武器です。 銛とは異なり、刺さったまま抜けないようにするためのかえりが付いておりません。 ですので、つかんだ槍が傷口からすっぽ抜けてしまいました。 そして、背中からピルム号に叩きつけられ、海に落ちました。 その勢いのまま、白鯨の尾はピルム号の後部を打ちます。 その一撃で、ピルム号の竜骨【りゅうこつ】がへし折れました。 機関室が浸水し、パイプが折れ曲がり蒸気を吹き出します。 しかし、ピルム号も一糸報いました。 白鯨の尾びれが、回転するスクリューに当たったのです。 スクリューは壊されながらも、白鯨の尾びれに3つの穴を空けました。 たまらず、白鯨は海に潜ろうとしますが、それを許すまいとする者がありました。シンドバードです。 満身創痍、まだ息があるのも不思議なくらいですが、なおも槍を振り下ろしてもう一傷与えようとします。 白鯨は、その目障りな人間を飲み込もうと口を開けます。 それを、シンドバードは白鯨の上あごを槍で突いて、かろうじて飲み込まれるのを防ぎました。 飲み込まれはしませんでしたが、白鯨の歯がシンドバードの生身の右脚を捉えました。 マッコウ鯨の歯は下あごのみにあり、それもまばらに生えております。 ですので、噛み切られる事はありませんでしたが、その歯は、右脚に大きな穴を開けました。 白鯨は、シンドバードをくわえたまま海へと潜ります。 <右 近い ささやき> 白鯨は、まっすぐに潜っていきます。 ぐんぐんと水面【すいめん】が遠くなり、あたりが暗闇に包まれていきます。 「いいぞ、そのまま離すなよ」と胸中でほくそ笑み、うっすらと見える白鯨の目に鯨骨と鋼の左脚を突き入れました。 やわらかい物を踏み抜く感触に、シンドバードの全身が、義足までもが泡立つような快感に震えます。 あたりは、真っ暗で、もう上も下も分かりません。 シンドバードは、突き入れた義足の蒸気を解放しました。 強烈な衝撃が白鯨の頭蓋を揺らし、眼窩【がんか】から蒸気の泡があふれ海に溶けます。 光は無く、音のみがある鯨の世界。 その鯨の世界で、シンドバードはゴボゴボと哄笑を上げるのでした。 <左 普通> 一方、海上ではピルム号の配管に穴が開いて、船内に高温の蒸気が吹き荒れておりました。 さらに、船尾からの浸水で船が後ろに傾きます。 衝撃で壊れた樽からこぼれた鯨油は、重力に引かれて船の最後尾、機関室に到達しました。 たっぷりと鯨油を腹に抱えたピルム号は、たちまち炎に包まれてしまいました。 「海に飛び込めッ!」 スターバックの言葉にピルム号の船員が、海に飛び込むも、あふれた鯨油は海の上に広がり、文字通りの火の海と化しました。 迫りくる炎から逃げようと必至で泳ぐも火の手は早く、1人、また1人と飲み込まれては悲鳴をあげます。 ハーマンのすぐ後ろまで炎が迫り、もうだめかと思った時、ハーマンの手が何かに触れました。 それは、シンドバードが乗っていた1番ボートでした。 渾身の力を振り絞って、ボートにはい上がると、ボイラーには火が入っておりました。 レバーを操作すると、スクリューが回転してボートが発進します。 間一髪、炎から逃げられた。そう安堵しかけた時、海中からそれはやってきました。 それは、噴気孔からドロリとした血の塊を噴き出し、白くまだらな肌を赤く染めました。 右目には、シンドバードの義足だけが突き刺さっており、装着用の穴が白く虚無を湛えておりました。 その怪物、白鯨はハーマンに気付いたのか、大きな口を開けて向かってきます。 口の端からは、冗談のように長いイカの脚がゲロリとこぼれております。 もうだめかと思った瞬間、白鯨の体はくるんと反転して、何かに引っ張られるかのように海の底に沈んでいきました。 ピルム号です。 白鯨の背には、あの弓で撃ち込んだ銛が突き刺さっておりました。 沈没するピルム号に引かれて、海中に沈んだのです。 ハーマンは、生存者を探しましたが1人も見つかりませんでした。 蒸気機関は、燃料が切れると無用の長物になり下がります。 ただただ、漂流するだけとなったハーマンは2日後、別の捕鯨船に救出されたのでした。 白鯨は死んだのでしょうか? はたまた海の底で復讐の時をうかがっているのでしょうか? その後、白鯨の姿を見た者はおりません。 白鯨という枷の取れた蒸気帝国は、たくさんの鯨を取り。 取った鯨の数だけの幸せを謳歌【おうか】するのでありました。 めでたし、めでたし。 マスター、今回のお話はお楽しみいただけたでしょうか? ふふっ。 あら、なんだか納得がいかない感じでございますねぇ。 鯨の犠牲の上に成り立つ幸せ、というのがご不満なのでしょうか? ですが、現実でも、鯨油は灯り用の油として大変高い需要がありました。 鯨を取るのを辞めれば、人々が活動できる時間は短くなる、都市は夜の暗闇に沈んでしまう、人間の幸せのためには鯨の犠牲が必要だと、本気で信じられていたのでございます。 んー、そうですね、このような問をした方が現代の方でも共感しやすいでしょうか? <右 近い ささやき> んっ。 マスターは、電気のある便利な暮らしと鯨の命、どちらの方が大切ですか? ふふっ。少々、おいたが過ぎたでしょうか? ですが、このように考えると話の味わいが変わってくるかもしれません。 もう一度、問わせていただきましょうか。 マスター、今回のお話はお楽しみいただけたでしょうか? そして、次のお話は、もぉ〜っと、面白いですわよ。ふふっ。